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2018年11月26日 (月)

「第〇期」には,2通りの意味があった

昨日の記事に対して,川瀬さんがコメントしていただいた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第Ⅰ期・・・5度西偏 (7世紀後半)

第Ⅰ期・・・5度東偏・・・・・・・・・・・・・九州王朝の主導の時代(7世紀後半)

第Ⅱ期・・・ほぼ正方位(東偏1~2度)      ↓      (8世紀前半)

第Ⅲ期・・・ほぼ正方位(東偏1~2度?)     ↓    (8世紀後半~9世紀前半)

第Ⅳ期・・・西偏5度?・・・・・・・・・・・大和王朝の主導の時代

第Ⅴ期・・・報告書に記載なし            ↓

第Ⅵ期・・・正方位                  ↓

 という風に考えると、この土器と瓦による編年は最低100年ずれていることになりますね。
方位と時代確認はこれでよいかもしれない。

 つまりⅠ期・・・・・・6世紀後半
     Ⅱ期・・・・・・7世紀前半
     Ⅲ期・・・・・・7世紀後半から8世紀前半と。
  Ⅲ期以後が「大和王朝」主導の時代かもね。
 第Ⅳ期・Ⅴ期・Ⅵ期はいつごろと絶対年代を比定しているのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここで『鴻臚館跡15』を読んでみた。
すると,こんなことが書いてあった。

「 第Ⅲ期は、礎石建物の時期である。遺存状態は悪いが、第Ⅱ期石垣の直上に、東西棟の礎石抜き跡 が乗っており、早くて8世紀後半の造営と考えることができる。なお、この東西棟の位置には、9世 紀後半には廃棄土坑が掘られており、第Ⅲ期建物が9世紀前半までで廃されたことがわかる。以後、 土坑の検出例は続くが、建物遺構として把握できるものは見られない。」
そうすると,第Ⅳ期や第Ⅵ期は,時代ではなく,発掘調査の地区のことになってしまうかも!?

そういえば,第Ⅳ期の図には「中世~現代遺構平面図」とあり,
第Ⅵ期の図には「古代・中世遺構平面図」とあり,あれれ・・・と思ったのでした。
ただ,ほかのところで,「第Ⅲ期は,礎石建物の時代」
「第Ⅴ期は10世紀後半~11世紀前半」と書いてあるところもありました。

ということで,今回は第Ⅰ期から第Ⅲ期までで切っておき,
川瀬さんのおっしゃったように,
第Ⅰ期(東偏)と第Ⅱ期(正方位)を九州王朝の主導の時代
第Ⅲ期(正方位)を大和王朝の主導の時代

と訂正したいと思います。

第〇期という言い方は,時代も表しますが,
発掘調査の順番も表すのですね。
お騒がせしました。
注意が足りませんでした。

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コメント

 私も『鴻臚館15』をダウンロードしてたしかめました。

 たしかに遺構としてはⅣ期もⅤ期もあるようですが、残存状態が悪いので「建物遺構の変遷過程としてはまとめられないため、遺構番号順に報告する。」とp30に書いてありました。
 ちなみに
 Ⅳ期は9世紀後半~ 10世紀前半、
 Ⅴ期は10世紀後半~ 11世紀前半

 またⅡ期ですでに礎石建物になっており、瓦葺であったと考えられていました。しかも出土した軒丸瓦が、なんと武蔵国分寺の創建瓦とされているものとそっくりでしたよ。p87にある19の瓦です。17の瓦も15の瓦もよく似ているな。
 私は武蔵国分寺を7世紀前半から後半創建と考えていますが、鴻臚館の編年を100年動かしてみると瓦葺礎石建物が始まったⅡ期が7世紀前半で完全に礎石で瓦葺になったⅢ期が7世紀後半であることとぴったりです。
 肥沼さんはⅢ期を「大和王朝」時代としましたが、ここも九州王朝時代と考えて良いと思います。
 したがって「大和王朝時代」の鴻臚館遺跡はⅣ期以後で、後世の削平でほとんど残っていないのではないでしょうか。
 やはり九州の土器や瓦編年は畿内に比べて100年あとに編年されていると見て良いと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 またⅡ期ですでに礎石建物になっており、瓦葺であったと考えられていました。しかも出土した軒丸瓦が、なんと武蔵国分寺の創建瓦とされているものとそっくりでしたよ。p87にある19の瓦です。17の瓦も15の瓦もよく似ているな。
 私は武蔵国分寺を7世紀前半から後半創建と考えていますが、鴻臚館の編年を100年動かしてみると瓦葺礎石建物が始まったⅡ期が7世紀前半で完全に礎石で瓦葺になったⅢ期が7世紀後半であることとぴったりです。
 肥沼さんはⅢ期を「大和王朝」時代としましたが、ここも九州王朝時代と考えて良いと思います。
 したがって「大和王朝時代」の鴻臚館遺跡はⅣ期以後で、後世の削平でほとんど残っていないのではないでしょうか。
 やはり九州の土器や瓦編年は畿内に比べて100年あとに編年されていると見て良いと思います。

私がちょっと遠慮したら,今度は川瀬さんが「第Ⅲ期も九州王朝と考えて良い」ということですか!
おー,すごいことになってきました。
しかも,「武蔵国分寺の創建瓦とされているものとそっくり」という物証付きですからビックリです。
本当に古代史の研究というのは,何が出てくるかわからない魅力がありますね。

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