« 新々アパートの建設 11/1 | トップページ | 久しぶりの「はみだしたの」掲載 »

2018年11月 2日 (金)

日本書紀のページ数と「美濃」の出現数

古田史学に関わった頃(1991年),
「日本書紀(岩波古典文学大系)のページ配分」というグラフ資料を
作ったことがあった。

Dscn4051

この資料と「美濃」の出現数をコラボしてみたら,
ちょっと面白いことにならないかと思った。
(昼寝の成果か?)

ページ数 〇=10ページ ・=1ページ ●=「美濃」1回

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

神代 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇・・・・ ●●

神武 ・・・・
綏靖 ・・
安寧 ・
懿徳 ・
孝昭 ・・
孝昭 ・・
孝靈 ・・
孝元 ・・
開化 ・・・・
崇神 〇〇

垂仁 〇〇・・・・・・・ ●
景行 〇〇〇・・・・・・ ●●●●●●  四十年,日本武尊の再征の中で「身毛津君」の名(壬申の乱で活躍)
成務 ・・・・                  五十五年春二月五日,彦狭島王を東山道十五国の都督に任じられた
仲哀 〇                                         (九州王朝時代の)
(神功) 〇〇〇・・
応神 〇〇 
仁徳 〇〇〇・・・・・・
履中 〇・・
反正 ・・
允恭 〇・・・・・・・・
安康 ・・・・・・

雄略 〇〇〇〇・・・・・・
清寧 ・・・・・・
顕宗 〇・・・・・・・・
仁賢 〇
武烈 〇
継体 〇〇〇
安閑 ・・・・・・・・
宣化 ・・・・・・
欽明 〇〇〇〇〇〇〇
敏達 〇〇・・

用明 ・・・・・・
崇峻 ・・・・・・・・
推古 〇〇〇〇・・・・
舒明 〇〇
皇極 〇〇〇・・
孝徳 〇〇〇〇〇〇・・・・・・・・ ●
斉明 〇〇・・・・・・ ●
天智 〇〇〇 ●
天武 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇・・ ●●●●●●●●●●●●●

持統 〇〇〇〇〇・・・・ ●●●

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「美濃」の出現は,かなり極端な分布となった。
景行が多いのは,日本武尊による東国遠征のため。
天武が多いのは,壬申の乱の関係である。


« 新々アパートの建設 11/1 | トップページ | 久しぶりの「はみだしたの」掲載 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 景行紀に美濃関係記事が多いのは「日本武尊による東国遠征のため」でしょうか。この冒頭の大和の大王が美濃に御幸して妻を得たとのはなしは、日本武尊による東国遠征より前の話です。
 日本武尊による東国遠征説話の中で、美濃がどのように扱われているか精査が必要です。
 つまり征服の対称なのか、それとも征服軍を発するための拠点なのかということです。
 これで美濃がいつ近畿天皇家に帰服したかがわかります。
 ちなみに書紀で日本武尊に東国遠征を命じた主体ははっきりと「天皇」と記されていますから、大和の大王です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  景行紀に美濃関係記事が多いのは「日本武尊による東国遠征のため」でしょうか。この冒頭の大和の大王が美濃に御幸して妻を得たとのはなしは、日本武尊による東国遠征より前の話です。

そうなんですね。

〉 日本武尊による東国遠征説話の中で、美濃がどのように扱われているか精査が必要です。
 つまり征服の対称なのか、それとも征服軍を発するための拠点なのかということです。
 これで美濃がいつ近畿天皇家に帰服したかがわかります。

なるほど。

〉 ちなみに書紀で日本武尊に東国遠征を命じた主体ははっきりと「天皇」と記されていますから、大和の大王です。

「主語有無」を使うと,大和の大王が日本武尊に東国遠征を命じたという訳ですね。

肥沼さんへ

 美濃国がいつから近畿天皇家の領域となったか。
 景行紀に「美濃」が多数出てきて、それが日本武尊の東国遠征の前だということまで確認して、そこで止まってしまったようですね。
 漢文の日本書紀に挑戦することにはビビッてしまったみたいですね。

 景行紀で最初に美濃が出たきた箇所は、天皇(大和の大王)が美濃に行幸して、この地の豪族の娘を妻にしたという話でした。つまり美濃国の豪族と大和の大王が婚姻によって主人ー配下の関係を結んだということ。景行の時代が美濃国が大和の大王の配下になったことを示しています。
 
 ではあとの景行紀での美濃記事を見てみましょう。二つあります。

2:
廿七年冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令擊熊襲、時年十六。於是日本武尊曰「吾、得善射者欲與行。其何處有善射者焉。」或者啓之曰「美濃國有善射者、曰弟彥公。」於是日本武尊、遣葛城人宮戸彥、喚弟彥公。故、弟彥公、便率石占横立及尾張田子之稻置・乳近之稻置而來、則從日本武尊而行之。

27年の冬10月1日。日本武尊を遣わし熊襲を討たしめる。時に16歳。ここにおいて日本武尊曰く「我、弓矢を良く射る者を得て共に赴きたい。何処に弓を良く射る者がいるのだろうか」と。或る者が敬って申すには、「美濃国に良く弓矢を射る者がある。その名を乙彦公と言う」と。ここにおいて日本武尊は、葛城人の宮戸彦を遣わし、乙彦公を召した。そこで乙彦公は、石占横立および尾張の田子の稲置と乳近の稲置を率いて来り、すなわち日本武尊に従って(熊襲に)行った。

※ここでは美濃は熊襲を討てと命令された日本武尊の援軍として描かれている。乙彦は「公」との姓を持っているわけだから美濃国(少なくともその一地方)を治める豪族で、その配下の豪族とその軍を召し連れて進軍したとなっている。この点は、「古事記」が小碓命の単独行として描かれているのとは異なっている。
 なお日本武尊を熊襲討伐に派遣した主体が省略されているが、話の流れからしてこれは、近畿天皇家の大王だと思われる。

3:
卌年夏六月、東夷多叛、邊境騷動。秋七月癸未朔戊戌、天皇詔群卿曰「今東國不安、暴神多起、亦蝦夷悉叛、屢略人民。遣誰人以平其亂。」群臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言「臣則先勞西征、是役必大碓皇子之事矣。」時大碓皇子愕然之、逃隱草中。則遣使者召來、爰天皇責曰「汝不欲矣、豈强遣耶。何未對賊、以豫懼甚焉。」因此、遂封美濃、仍如封地、是身毛津君・守君、凡二族之始祖也。

40年夏六月に、東夷が多数反乱し、辺境地帯は騒がしくなった。秋7月に天皇(大和の大王)は豪族らを召して曰く「今は東国が不安で、従わぬ者どもが多く決起している。また蝦夷もことごとく叛き、我が国の人民が多く略奪されている。誰を派遣してこの乱を平定させたらよいか」と。並み居る豪族たちは皆、だれを遣わしたらよいか答えられなかった。このとき日本武尊が奏請して「臣は先に西征に力を尽したばかりである。ここは大碓皇子を遣わすべきでしょう」と。時に大碓皇子は之を聞いて愕然とし、片田舎に逃亡して隠れた。乃ち使者を遣わして召し来たった。天皇はこれを責めて曰く「汝はあに強いて遣わされることを欲しないのか。未だ賊に対せずして、すでに以て恐れること甚だしい」と。これによって遂に大碓皇子を美濃に封じ、この国を封地とした。この大碓皇子が身毛津の公と守の君、の二族の始祖である。

※ここでも美濃国は大和の大王の支配地域として描かれ、東国平定を渋った大碓皇子をこの地に封じたと書かれている。

 以上の検討により、美濃国は景行の代に大和の大王の領土となったことがわかります。

追伸・訂正

 前の幾つかのコメントで、日本武尊を熊襲討伐や東国討伐に向かわせたのは大和の大王だとしましたが、これは間違いでした。 
 討伐させたのは九州王朝の天子。そしてここでいう「熊襲」とは、景行紀の天皇(九州王朝の天皇)の九州一円討伐話で見れば明らかなように、九州の東岸を巡って日向についた時点で襲国をいかにして攻めたら良いか群臣に相談し、その後襲国を平定した後に「熊郡」をも平定して、葦北から火国についたとあります。したがって熊郡と襲国とは、日向国と火国の間にある国。つまり後の薩摩・大隅国だということであり、のちに隼人の国と呼ばれた地域です。
 したがって「廿七年冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令擊熊襲、時年十六。」の日本武尊を派遣した主体は九州王朝の天子で、彼が向かった場所は、今の薩摩・大隅で、これは九州王朝の話です。

 そして「四年春二月甲寅朔甲子、天皇幸美濃。」の「天皇」は大和の大王で、さらに「卌四年春二月甲寅朔甲子年夏六月、東夷多叛、邊境騷動。」があったので東を平定させるために誰を派遣したらよいかと問うた「天皇」はこれは大和の大王。なぜならこの時この派遣話を断って美濃に流されたのは景行の息子である大碓だからです。
 しかしその次に日本武尊に東国遠征を指せる話は、九州王朝の事績をくっつけたものだと思われます。

 書紀は景行の息子である小碓命と日本武尊を同一人物であるかのように装っています。
 このことは景行紀の冒頭に景行の息子たちのことを記した箇所に明白です。
 「二年春三月丙寅朔戊辰、立播磨稻日大郎姬一云、稻日稚郎姬。郎姬、此云異羅菟咩爲皇后。后生二男、第一曰大碓皇子、第二曰小碓尊。一書云、皇后生三男。其第三曰稚倭根子皇子。其大碓皇子・小碓尊、一日同胞而雙生、天皇異之則誥於碓、故因號其二王曰大碓・小碓也。是小碓尊、亦名日本童男童男、此云烏具奈、亦曰日本武尊、幼有雄略之氣、及壯容貌魁偉、身長一丈、力能扛鼎焉。」
 この小碓尊の記述で、彼のまたの名がたくさん書いてある冒頭に「日本童男童男」がありますが、これが「日本武尊」と似た名前なので、「日本武尊」を小碓尊のまたの名とすることで、二人の人物を同一人物に仕立て上げています。

 景行の時期には美濃はすでに大和の大王の領国であったと思われます。

 そしてそれより東の領域を征服した日本武尊とは、九州王朝の皇子もしくは天子だったのではないでしょうか。
 もしかしたら古事記の小碓尊の熊襲遠征と東国遠征は、九州王朝の王による薩摩大隅遠征と東国遠征の事実を、近畿天皇家の事績としようとの意図で天武によって作られた説話なのかもしれませんし、書紀でも大和の大王による東西勢力拡大の話と、九州王朝による薩摩大隅征服と東国征服の話を一つの話のように装っているのかもしれません。
 以上訂正です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  前の幾つかのコメントで、日本武尊を熊襲討伐や東国討伐に向かわせたのは大和の大王だとしましたが、これは間違いでした。 
討伐させたのは九州王朝の天子。そしてここでいう「熊襲」とは、景行紀の天皇(九州王朝の天皇)の九州一円討伐話で見れば明らかなように、九州の東岸を巡って日向についた時点で襲国をいかにして攻めたら良いか群臣に相談し、その後襲国を平定した後に「熊郡」をも平定して、葦北から火国についたとあります。したがって熊郡と襲国とは、日向国と火国の間にある国。つまり後の薩摩・大隅国だということであり、のちに隼人の国と呼ばれた地域です。
 したがって「廿七年冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令擊熊襲、時年十六。」の日本武尊を派遣した主体は九州王朝の天子で、彼が向かった場所は、今の薩摩・大隅で、これは九州王朝の話です。

そうですよね。

〉  景行の時期には美濃はすでに大和の大王の領国であったと思われます。
 そしてそれより東の領域を征服した日本武尊とは、九州王朝の皇子もしくは天子だったのではないでしょうか。

はい,わかりました。

肥沼さんへ

 ところで一つ質問。
 肥沼さんは日本書紀の漢文版で返り点のついたものをもっていますか?ネットで公開されている漢文版は、返り点がついていないもの。いわゆる「白文」。これをすらすらと訓読みすることは、かなりの漢文の手練れでないとできません。
 返り点のついている漢文版と現代語訳版を見比べて読むと、次第に読み方に慣れてくると思いますが。
 ちなみに私は、国史大系の日本書紀(漢文で返り点付、注などはない)を持っています。
 最初に日本書紀を読んだのはこの国史大系版。そういえば鎌倉幕府の正史「吾妻鑑」も国史大系の漢文で読んだな。
 返り点つきの漢文をたくさん読んでいると、返り点をつける訓読みの方法が身についてきますので、白文でも読めるようになります。
 大学の史学科東洋史専攻の東洋史演習で、玄奘三蔵の「大唐西域記」の巻1を漢文で(返り点つき)二年間毎週一コマの演習で読み終えました。

 返り点付の日本書紀漢文版をつかって、神武紀から順番に読み解いていく勉強会でもやりませんか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ところで一つ質問。
 肥沼さんは日本書紀の漢文版で返り点のついたものをもっていますか?

前にも同じ質問があったような気がしますが,岩波文庫版は「返り点付き」です。
(前に持っていた岩波古典文学大系もそうだったかな?)

〉  返り点付の日本書紀漢文版をつかって、神武紀から順番に読み解いていく勉強会でもやりませんか。

それは遺跡の精査が終わってからですか?それとも並行してですか?

肥沼さんへ
>〉  返り点付の日本書紀漢文版をつかって、神武紀から順番に読み解いていく勉強会でもやりませんか。
それは遺跡の精査が終わってからですか?それとも並行してですか?

 来年3月までに終えたいので平行です。
 府中研究会が隔週なので、間に隔週で日本書紀研究会を入れてみたらどうでしょうか?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 来年3月までに終えたいので平行です。
 府中研究会が隔週なので、間に隔週で日本書紀研究会を入れてみたらどうでしょうか?

「来年3月までに終える」ということは,約10回。
神武紀を2回で終える計算になると思います。
ちょっとそのペースは私には無理そうです。
神武紀については,スタートの人物なので読んでみたい気はありますが・・・。

肥沼さんへ

 来年3月までというのは一つの目安です。そこまでに府中東偏の街の研究と、全国の寺院官衙遺跡の方位の研究を終わらせようという。
 そこで私の主力を近代史に傾注する方向に転換する。

 遺構精査が終わっていれば二週間に一度(もしくは週に一度)の日本書紀研究会は継続してできると思いますよ。
 とりあえずどの程度のペースになるかわからないが二週間に一度のペースで、一回2時間程度のつもりでやりはじめてみませんか。
 声を出して読む必要があるので、声を出せる場所。
 一番良いのは私の自宅で。
 他に良い場所があったらご紹介ください。府中か秋津付近であれば。
 府中研究会と隔週で交互にやってみましょう。
 第一回の候補日は、11月19日から24日の中で都合の良い日に。

追伸
 19日から24日の週。21水は一ツ目弁天会に出かける予定。23金はヘルパーさんを入れているので府中秋津方面に出かけることはできる。19日は買い物。したがって自宅ならできる日は20日と22日と24日です。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 新々アパートの建設 11/1 | トップページ | 久しぶりの「はみだしたの」掲載 »

2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ