これまでの「東北の諸城柵」とその年代(古田さん)
古田田武彦氏の『真実の東北王朝』(ミネルヴァ書房)の「多賀城の探求」P28~30には,
以下のような図と表が出ている。
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古代の城柵もすべて蝦夷国内にあり
このような、わたしの分析に対する“裏付け”、それをわたしは次のような地図から“確信”することとなった。
(下図参照)
ここには、「東北の諸城柵」の分布が図示されている。
(一) 奥羽山脈の東側(太平洋側)、南から北に。
(1).郡山遺跡(八世紀前半以前) ★
(2).多賀城(同右) ★
(3).桃生ものう城(八世紀後半)
(4).城生じょうの遺跡(八世紀前半以前)
(5).名生館みようだて遺跡(同右)
(6).宮沢遺跡(八世紀後半)
(7).伊治これはる城(八世紀後半)
(8).胆沢いさわ城(九世紀初頭) ★
(9).徳丹とくたん城(九世紀初頭)
(10).志波しわ城(同右) ★
(二) 奥羽山脈の西側(日本海側)の東北地方。
(11).城輪柵きのわのさく遺跡(九世紀初頭) ★
(12).払田柵ほつたのさく遺跡(雄勝城か)(八世紀後半) ★
(13).秋田城(出羽柵)(八世紀前半以前) ★
(三) 奥羽山脈の西側(日本海側)の北陸地方。
(14).渟足柵(ぬたりのさく推定地)(八世紀前半以前)
(15).磐舟柵(同右)(同右)
右に分布する、各「城柵」は、いかなる性格のものであろうか。それは、一言でいえば、
「大和朝廷側が、敵地(蝦夷国)のさ中に挿(さ)し入れた『侵略の拠点』にして
、軍事上、政治上の『征圧の中心地』」だったのではあるまいか。
とすれば、それらはすべて「蝦夷国内」にあるべきものである。
事実、右の(1).~(13).の大半は(多賀城等を除き)すべて「蝦夷国内」である。
また(14).,(15).も、「北の蝦夷」とされる、「越の蝦夷国」に属している。
これらに対して、今問題の「多賀城」などだけが、「蝦夷国外」だとすれば、“不整合”この上ない。
しかし、今わたしのしめした新しい分析に従えば、右の(1).~(15).すべてが「蝦夷国内」となり、
“統一した理解”がえられるのである。
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これまでの「東偏」の研究からいえば,大和朝廷を九州王朝に,
年代をかなり昔にしなければならないだろう。
もちろん主語は変わっても,「当時の主権者による東北侵略」と言えば同じではあるが…。
★は,これまで「夢ブログ」にも登場した遺跡
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秋田城もとりあげていましたか?
志波城跡記念館を見に行った時に
秋田城の跡も整備されているという案内を
見つけていたので、
行ってみようと秋田に行くと秋田駅近くにあるのは久保田城で
秋田城は駅から相当離れていたのであきらめたのを思い出しました。
投稿: 翔空 | 2018年10月14日 (日) 10:35
翔空さんへ
コメントありがとうございます。
秋田城はいろいろ複雑で,もう少し勉強してからにします。
観世音寺式だから,きっと「東偏時代」もあったと思うのですが…。
投稿: 肥さん | 2018年10月14日 (日) 10:48
肥沼さんへ
>観世音寺式だから,きっと「東偏時代」もあったと思うのですが…。
これどういう意味だかわかりません。
秋田城に伴ってできた寺院が観世音寺式ということ? どこにそういう資料あります?
投稿: 川瀬 | 2018年10月14日 (日) 14:25
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 >観世音寺式だから,きっと「東偏時代」もあったと思うのですが…。
これどういう意味だかわかりません。
秋田城に伴ってできた寺院が観世音寺式ということ? どこにそういう資料あります?
すいません。間違いでした.。
2年半前にも同じようなことをしていたようですね。
投稿: 肥さん | 2018年10月14日 (日) 17:39