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2018年10月 9日 (火)

『次郎物語』

上記の本を古本屋街で見つけた。
ポプラ社文庫のもので,5冊で500円。
本田次郎の成長物語ということだが,
下村湖人の自伝的な要素が強いらしい。
戦中から戦後にかけて続くというのにも興味がある。
いつ読み終わるかわからないが,持っていないと読み始められないので,
「持っておく」ことにした。高崎サークルの板橋さんからも勧められた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『次郎物語』(じろうものがたり)は、下村湖人による日本の長編教養小説である。
1941年(昭和16年)から1954年(昭和29年)刊。全五部。未完。
幼少期に里子に出された主人公本田次郎の成長を、青年期にかけて描く。
湖人自身の里子体験が反映されるなど、自伝的色彩が濃い。児童文学として読まれることも多い。
内容的には、家族や学校といった生活行動範囲の広がりに沿って主人公の人格的成長を描く第三部までと、
五・一五事件、二・二六事件に集約される軍国主義的な時代背景や、
主人公の精神的恋愛を作品の重要な要素として、社会性の広がりに沿って展開する第四部以降に
大別できると考えられる。
第一、二、五部には「あとがき」が、第四部には「附記」がある。
第二部のあとがきによれば、第一部は「教育と母性愛」、
第二部は「自己開拓者としての少年次郎」がテーマであると述べられている。
また、第五部のあとがきには、「戦争末期の次郎を第六部、終戦後数年たってからの次郎を第七部として
描いてみたいと思っている」とあるものの、下村が1955年に死去したため未完に終わった。


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心と体」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 この本は中学二年のときに一気に読みました。
 感想は、正直いっておもしろくなかった。なんでこんな悲惨な苦労話を人に読ませるのかと思ったぐらいだ。同じ時期に呼んだのが藤村の「破戒」。これも同じ感想。しかもなぜ主人公は部落差別と闘わないのか、なんでこれに屈服した人を藤村は描いたのか疑問をもった。
 私はこれらを読む前に岩波の少年少女文学全集を全部読んでいて、これにはたくさんの児童文学の名作が入っていた。ここにもつらい話は多いが、もっと楽しく読めて教訓が自然に心に入ってくる作品ばかりだった。西洋の児童文学にも苦難と戦うものが多いが、しかもハラハラドキドキがあって面白い。
 日本の自伝的文学は暗いですね。苦難と戦わず耐え忍ぶ人生だからかな?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 日本の自伝的文学は暗いですね。苦難と戦わず耐え忍ぶ人生だからかな?

最近「おしん」が若い女性の間で支持されているらしいです。
その理由は,どうも日本の「耐え忍ぶ文化」と「現代の非正規労働の過酷さ」に
あるのではないかと.テレビでは言っていました。

農業が主なアジアでは,台風がやってくると大きな被害をもたらすが,
やがて台風一過また太陽の恩恵を得られる。それが耐え忍ぶ文化につながった?
一方.寒冷で農業に向かなかったヨーロッパは,狩猟が中心で,
他民族との攻防が常に課題となったので,戦って勝ち取る文化につながった?

そんな話が本当かどうか知らないが,これからはどちらか極端に行くのではなくて.
両方の長所を「いいとこ取り」していくわけにはいかないのかな.と思います。

肥沼さんへ
 
 西洋の児童文学には、対ナチ闘争を背景にしたものがたくさんあります。
 肥沼さんが前に言及していたケストナーの「飛ぶ教室」などはその最たるものです。
 日本の戦後児童文学にも戦争を背景にした作品が多いのですが、戦う作品は皆無です。やはり耐え忍ぶ主人公が描かれます。
 この違いの背景は自然ではなくてしばしば、西洋市民社会と日本市民社会の成立の背景の違いに原因があったと言われています。
 西洋は市民革命時に、フランスに典型のように、市民の武装蜂起がしばしば市民の権利の獲得につながっていた。だから西洋では政治闘争が当たり前で、政治談議をパブや喫茶店で行う。しかし日本の市民革命である「明治維新」では市民の武装蜂起で権利を獲得するのではなく、上から天皇から権利を与えられる形となった。だから日本では政治闘争は一部の過激人士のすることで、政治談議ではなく無難なスポーツの話か下ネタが居酒屋のおじさんたちの話になると。
 こうした政治文化の背景が児童文学に表れていると。
 私は少し違うと考えています。
 「明治維新」においても市民の武装蜂起はあった。それは一方的に租税を増やす地租改正や戦争に百姓町人を駆り出す徴兵令への反対一揆という形で。そしてこの武力闘争の結果地租は引き下げられた。さらにこの成果を背景にしたのが自由民権運動。この運動そのものは特権を奪われた武士たちが始めたものだが、自由平等の旗印は百姓や町人にも受け入れられ民権運動は燎原の火のごとく広がった。だから明治政府は欽定憲法と議会開設に行くしかなかった。
 日本でも市民の権利は武装闘争で実現したのです。
 ではなぜ日本ではそのご政治権力の横暴に戦う風潮が廃れたか。
 これを考えるとき、明治の大逆事件を頂点とした権力による政治弾圧の歴史があると思います。
 それまでは有名なオッペケペーのように歌舞音曲に載せて政治運動を行ったり、川柳や狂歌やさらにマンガまで駆使して政治批判を行うことがあたりまえでした。これは江戸の伝統を引き継いでいます。だから文学作品にも政治批判の伝統が江戸からありました。
 これを徹底的に破壊しつくしたのが大逆事件とその後できた治安維持法です。
 何しろ密告を制度化したので、おいそれと政治談議すらできなくなり、検閲によって音楽も文学も劇も、そして学問も政治とは切り離されました。おかげで政治闘争は一部の人のものになり、居酒屋で政治談議は危なくてできなくなりました。
 だから昭和のファシズム運動が広がっていったとき民衆レベルの反対闘争は起きなかったし、政府が軍国主義に突進していったときに抵抗闘争は微弱でした。抵抗した共産党は徹底弾圧され、軍国主義を批判した学者や政治家も宗教家も弾圧されました。
 そのうえすべての政党が解散させられて大政翼賛会に統合され、労働組合も解散させられて産業報国会になった。さらに宗教は天皇教である国家神道を賛美しない宗教もすべて弾圧された。日本の民衆は抵抗する組織を奪われたのです。
 だから日本の民衆はファシズムにただ耐え忍ぶしかなかった。
 このため戦後に生まれた児童文学も戦いではなく耐え忍ぶものになった。
 わたしはこう考えます。
 日本では政治の横暴に対する民衆の運動、それも政治権力との武力衝突すら辞さないそれは、明治の自由民権運動が最後です。明治政府の弾圧は、正当な請願運動すら弾圧したし、労働者の当然の権利である組合運動ですら弾圧したのですから。
 こうして日本の市民は約100年の間、政治権力との命がけの戦いの経験を欠いています。

 この歴史の違いが文学にも反映していますし、今でも芸能人や文化人や学者が政治的に発言することを厭う文化が日本には存在するわけです。そして人々が政治的に考えることもまた少ない。出来事の裏にはかならず政治的意図があるという考え方も弱いですね。東京オリンピック招致が憲法改悪のための目くらましであるなど、気が付いていない人が多い(おなじく原発事故隠しにも使われている)。
 たとえば古田さんの歴史学が学界から排除無視されている背景に政治イデオロギーがあるとは、多くの古田史学系の人々が考えていないことです。ただ学者の横暴としか考えていない。

『次郎物語』懐かしいです。小学生の時に読みました(2巻ぐらいまではおもしろかった)。
次郎が病気の母に牛肉を買う場面があって、当時牛肉を食べたことがなかったので、すごくおいしそうに感じた記憶があります。
NHKでドラマもやってました。次郎が道路を走っていく後ろ姿に、♪北極星はずっと次郎を見ているよ♪とかいう主題歌が流れるオープニングが記憶にあります。
主演の池田秀一(かわいかった)はその後ガンダムのシャアで有名になりましたね。
大人になってから、映画も見たような気がします。

北活さんへ
コメントありがとうございます。

北活さんは,ずいぶん『次郎物語』に関りがあったのですね。
私はさっぱりで,父の蔵書の中にあったのは覚えていますが,
読んだことはありませんでしたし,NHKの放送も知りませんでした。
最低第2巻までは読むことにします。

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