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2018年10月 6日 (土)

泉官衙遺跡の遺構変遷図に,2つの王朝の「栄枯盛衰」を見た!

昨日は,清水さんがやられている横浜・多元の会に行った。
あまりに早く着いたのと.雨が激しく降っていたので,
スターバックスでコーヒーを飲みながら,
例の『南相馬に躍動する古代の郡役所~泉官衙遺跡』を読んでいた。
そこに,「歴史の神様」は降臨した。
この泉官衙の遺構変遷図は,2つの王朝の「栄枯盛衰」を物語っているのではないか!
そう思ったのです。取り急ぎアップします。

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A期 ~ 中国・南朝の柵封体制の中で,「倭の五王」として九州王朝が使いを送り,
 その都が東偏しているのを真似て,各地の官衙や寺社を東偏にした時期 【6世紀後半】

B‐a期 ~ 南朝が滅ぼされ,その体制を継ぐ(継体)ものとして,隋に対抗して正方位にした時期。
 A期とサイズは同じだが,四面庇(ひさし)の豪華な正殿をはじめ.堂々たる偉容 【7世紀前半】

B‐b期 ~ A期とサイズは同じだが,白村江の戦いの敗戦のためか.残された建物は正殿のみ。
 さらに周囲の囲いが半分しかなくなる 【7世紀後半】

 ● つまり,ここまでが九州王朝時代の官衙の姿

C‐a期 ~ A・B‐a・B‐bという九州王朝の官衙に対して,サイズを拡大し,突然すごい官衙の登場。
 大和王朝が九州王朝に取って代わった豪華な地方官衙の姿を再び示している。 【8世紀】

C‐b期 ~ しかし,100年も過ぎると,律令制は崩れ始め.後殿はなくなり,柵も減る 【9世紀】

C‐c期 ~ そして,もう100年過ぎると,正殿もなくなり,西脇殿のみの惨めな姿に・・・ 【10世紀】


 ● つまり,こちらは大和王朝の時代の官衙の姿

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ということで,私は「この泉官衙遺跡の6つの遺構変遷図から,2つの王朝の「栄枯盛衰」が見えた!」
と思ったわけですが,これがすごい発見なのか,あるいは幻なのか,読者の判断にお任せします。
もちろん「すごい発見!」と思っていただきたいのは,やまやまですが・・・。
なお,【  】で付けた「時期」は便宜的なもので,変更することも考えられます。アドバイス下さい。

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コメント

肥沼さんへ

 出土遺物などによる編年を無視すれば、肥沼さんが考えられたような変遷となると思います。
 だが問題は、A期が7世紀後半と年代比定されていることなのです。
 肥沼さんの推定と100年違い。
 したがってA期が7世紀後半であるとの通説の年代比定の根拠を見つけ出し、これが間違いであることをまず示さねばならない。
 そのうえで、このA期の政庁遺構が6世紀後半もしくは7世紀前半との推定を支える発掘事実を見つけ出さなければいけない。

 この二つを見つけることが課題なのです。
 これって私が出した宿題と同じでしょ!

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  この二つを見つけることが課題なのです。
 これって私が出した宿題と同じでしょ!

結局土器編年に縛られているので,先に進めないのですよね。

肥沼さんへ

>結局土器編年に縛られているので,先に進めないのですよね。
 と決めつけない方が良いと思います。
 郡衙もしくは評衙の年代が6世紀代に遡らず、7世紀後半になっているのは、日本書紀の孝徳紀の「大化改新詔」ではじめて全国に国―郡ー里制が敷かれたと文献史学では判断され、これが出土木簡群によって、7世紀においては郡ではなくて評だったと訂正されただけです。
 つまり評制も7世紀前半や6世紀後半にはなかったと判断されているので、泉官衙遺跡でもA期が7世紀末と判断された可能性があります。
 何しろ掘立柱建物や礎石建物の場合、その建物が建てられた年代を出土遺物で判断するのがとても難しいからです。
 遺物で判断できる場合は、一つは柱穴や礎石の下の整地層である壷穴から土器が出土し、これが後世の混入ではなくて、柱を建てるときや壷穴の版築土を固めるために入れたと判断できたばあいには、この土器の形式から年代を推定することができます。もう一つは、この掘立柱建物や礎石建物を作るに際して、先行する竪穴住居を壊し建てた場合で、この竪穴住居の床面から土器が出土すれば、竪穴住居が廃棄された年代が特定できるので、これが建物を建てた年代の上限となります。さらにあるとすれば、官衙群や寺院を造る際に土地造成が行われていて、窪みや湿地などを埋め立てて土地造成している際に、その整地層の中から出たもっとも新しい土器の示す年代で、この土地造成が行われた年代の上限が決められる。
 この三つの例がないと考古学的には掘立柱建物や礎石建物の建設年代は明らかにできません。
 そしてこうした例があることの方が稀です。
 このため掘立柱建物や礎石建物でできた官衙や寺の創建年代を明らかにする際に、考古学的遺物がないために、年代不詳とされるケースが多々あるし、それが文献で明らかにできる可能性があるときには、文献史料の方に依拠して決定される場合も多いのです。

 愛媛の久米官衙遺跡。
 特にどうみても宮としか思えない回廊状遺構のばあい、どうしても年代が特定できなかったようで、だからこそ近畿天皇家の王が伊予に行ったとの数少ない事例を根拠にしてこの遺構を理解しようとする動きがあるわけです。
 これと同じことが、泉官衙遺跡でもあるのではないでしょうか。
 この官衙遺跡は陸奥国の行方郡衙だと考えられています。そして陸奥国の成立は「常陸風土記」の記述から、7世紀中ごろと考えられており、それは常陸国から分離する形で作られた。
 この文献による理解が、官衙遺構のA期の年代を決めた可能性はあります。

 土器だと決めつけないで、じっくり資料を読んでみてください。

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