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2018年10月 4日 (木)

北秋津城・探検隊(3)

今朝周囲を廻ってみた。
まず,堀の外側(北)。

北側にはMさんのマンションがあるが,
幸いにも堀の外側の土塁は無事のようである。

Dscn3775_2

Dscn3776

さらに,我が家の東にある森へ。
これは「かわじま(地元の子は「かーじま」と呼んでいた。
私は岩国生まれなので,なんか違和感があった)の
しげちゃんの家の周囲を取り囲む森だ。

Dscn3771

標高的には我が家より柳瀬川の下流にあたるので,
「かわじま」は「川の中州」のことだと思う。
なので,みっちゃんの家の森の続きではないと思う。
(もっとも昔は,そこいら中雑木林だったが・・・)
こちらも「農家」。しげちゃんは1歳年下で中学理科の先生だったが,
家業を継ぐため若くして退職した。優秀な方だったので,残念だった。
(この狭い範囲に,一時幼馴染の中学教師が3人いたことになる)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 この秋津町と所沢市北秋津の境界付近の明治時代の地図で確認しました。
 http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.778963&lng=139.479659&zoom=17&dataset=kanto&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

 うまく見られないときは、
 http://ktgis.net/kjmapw/
 「今昔マップ」の「関東編」です。明治43年の2万分の一の地図で見られます。

 この柳瀬川は西部研修センターのある場所で大きく北西に蛇行し、ご指摘の「かわじま」の森のすぐ手前で急激に東にカーブしていました。
 つまりこの「かわじま」の森は、当時川に面した崖の上です。
 ここで柳瀬側が大きく蛇行した理由として考えられることは、昔はここが所沢丘陵の縁だったということ。
 つまり昔は北秋津城のあった台地が、肥沼さんの家のすぐ東側まで張り出していたと考えることができますよ。
 となれば北秋津城の北側の堀が南に曲がってくるということは考えられない。
 大地の端の南向きにコの字型になった丘を台地から掘りと土塁で区切って城にした。

 この「所沢市史研究」の復元図は、鎌倉時代の武士の館が「方形館」だという古い固定観念で作られたのだと思います。これは平地に館を作った場合。このときは四方を敵から防ぐために館を方形につくり堀で守った。
 しかし山間部やその縁なら岡が張り出しているからそれを守りに利用した。
 私が紹介した町田の小山田城。まさにこれがそれだと思います。北秋津城も同じ形式だ。

追伸
 肥沼さんの家の前で所沢市と東村山市の境界線がある。
 この境界線をよく見ると川のように蛇行している。これはきっと江戸時代の北秋津村と南秋津村の境界線で、この場所に柳瀬川が流れていたからだと思います。
 この場合でも「かわじま」の森は川の左岸(北岸)。
 やはりここが、北秋津城がある台地の縁だと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  私が紹介した町田の小山田城。まさにこれがそれだと思います。北秋津城も同じ形式だ。

そういうのは,住んでいる人にとってはかえってわかりにくいものなのでしょうね。
私の実感としては,うちの北側の道までは急な坂,
そこから柳瀬川まではゆっくり下るというというイメージです。


  ↘
急坂↘
    ↘
     ↘ →→
            ↘      
        道     →→
            ゆるい下り ↘ →→
                          ↘ 
                            柳瀬川

実はうちの裏の道路に沿って,「排水路敷」という土地があります。
(それを買い上げないと,新々アパートには出口がないというのです)
それだけ昔は水量が多かったということだと思いますが,
それが「しげちゃん」のうちの北側にもありました。
だから,かわじま=中の島という名前がついたのではないかと思うのです。
もしお時間が許せば,北秋津城へお越し下さい。
現地に立ってみないとわからないこともあると思いますので。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 やはりここが、北秋津城がある台地の縁だと思います。

まあ,そう決めつけないで,ぜひいらして下さいよ。ご案内いたしますので。(o^-^o)
なお,柳瀬川はかなり両岸とも護岸工事がされており,
今はどこを見ても数メートル以上の崖のようになっています。

ー              ー
 ↘            ↗
  ↘          ↗
   ↘        ↗
    ↘ 柳瀬川↗
      - ー 

〉  肥沼さんの家の前で所沢市と東村山市の境界線がある。
 この境界線をよく見ると川のように蛇行している。これはきっと江戸時代の北秋津村と南秋津村の境界線で、この場所に柳瀬川が流れていたからだと思います。

私のうちやしげちゃんのうちの裏に「排水路敷」が残されているということを考えると,川筋が複数に分かれていた可能性もあると思います。
今の柳瀬川と都県境と一致しないのは,やはり時期によっていろいろと蛇行していたからでしょうね。同じ住宅地でも,隣と都県名が違う例が少なからず見られます。

肥沼さんへ

>私の実感としては,うちの北側の道までは急な坂,
 なるほど。肥沼さんの家の前まで台地がせり出していたということですね。
 前の道は明治13年測量の地図(陸軍陸地測量部)でも存在するので、きっと古い道ですね。この道の前まで北秋津城の森はせり出していた。

>実はうちの裏の道路に沿って,「排水路敷」という土地があります。
(それを買い上げないと,新々アパートには出口がないというのです)
それだけ昔は水量が多かったということだと思いますが,
それが「しげちゃん」のうちの北側にもありました。

 と考えると「かわじま」の森と北秋津城の森とは別ですね。
 「かわじま」の森は微高地だから、ここの北や南に川が分れたのですね。
 ここは現地をじっくり観察できる利点だな。
 だいぶ現地の様子が分ってきました。

 とすると、北秋津城の北側の堀の延長が肥沼さんの家の北側の住宅地の北を走って南に下って、肥沼さんの家の北側の道路に繋がるので、北の堀の延長がこの道路と推定することが可能です。
 北秋津城はやはり西と北の堀切で切られた南向きのコの字型の山を詰め城として作ったのだと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 だいぶ現地の様子が分ってきました。

私もだいぶ地域の様子を知ることができ.感謝しております。
今後ともよろしくお願いいたします。

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