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2018年10月 7日 (日)

奈良県内の「東偏」の官衙遺跡

川瀬さんが,「奈良県の官衙遺構の中で
宮殿と考えられるもので東偏のものってあったかな?」
とおっしゃったので,9月22日に紹介した奈良県内の官衙遺跡を
再掲載したいと思う。

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寺院と同じように,南部に集まっている。
それがどうしてかは,あとで考えることにする。

次に,われわれの研究を助けてくれる「変遷」が載っているものを4つ紹介する。
いい仕事してくれてますなあ。

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最初「東偏」だったのが,ある時期に「正方位」にされているのがわかると思う。
そこには,政治的な意思が必ず働いているはずだ。
特に,右側のものは,最後に一棟だけ「正方位」の建物が残り象徴的だ。
では,もう一枚。

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「上之宮(桜井市)」が一番宮殿っぽい遺跡でしょうか。
名前も「上之宮」だし・・・。

この遺跡の場合,Ⅰ期のやや「西偏」のあと,「東偏」ばかりでⅡ~Ⅳ期と続き,
Ⅴ期で廃棄状態という3つの形態を取っています。
九州王朝の「正方位」が作られる前に白村江の戦いを迎えてしまった
ということでしょうかね。


【拡大版】

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 「上之宮遺跡」。興味深い遺跡を見つけましたね。
 これは聖徳太子(厩戸皇子)の「上宮」の伝承地で見つかった遺跡で、6世紀後半から末、7世紀初頭の豪族の居宅あとと見られています。そして居宅の西側から園池遺構が出ており、さらに大量の桃やスモモの核が発掘されたことから、大規模な花園があったと推定されている。そして居宅あとからは、木簡、琴柱、ベッコウ等の貴重品も出土している。
 どう考えて見ても「宮」あとでしょうね。
 最初のⅠ期は「西偏」と見ることもできますが、「東偏」と見ることも可能です。柵が一列しか出土していないので全体像がわかりません。そしてⅡ期は倉庫群が出てきて、Ⅲ期で大きな居宅とみられる四面庇の掘立柱建物が出現。奈良文化財研究所のデータベースでみると、桁行間数 7 総長(m) 12.9 梁行間数 6 総長(m) 11.2 と大きなもので、建物の南北軸は東偏10度でした。
 江口さん編集の『古代官衙』のⅠ「中央官衙」(青木敬著)ページ39にこの上之宮遺跡についての記述がありますが、Ⅳ期を6世紀末から7世紀初頭としています。ということはその前のⅢ期が6世紀後半ということでしょうね。
 近畿天皇家の中枢地域の大和国でも東偏の宮殿あとが見つかっているのですね。
 そして年代は6世紀後半から末。まさしく九州王朝が南朝に朝貢している時期の宮殿です。
 しかも厩戸皇子の生まれ育った宮殿とは。
 ちなみに彼がその後で作った斑鳩宮は西偏です。これは7世紀初頭。

追伸
 
 前に掲載されたときは気が付きませんでした。
 甘樫丘東麓遺跡は、建物データを見てみると「西偏」遺跡と考えられていますね。
 しかもこの遺跡は「蘇我氏の館」と考えられており、例の乙巳の変で滅ぼされた蘇我本宗家の館ですから、7世紀も中ごろ以前のものでしょう。

追伸2
 大和の東偏建物の中にあげられている「稲淵川西」遺跡。
 ここはデータベースの冒頭に書かれているように宮殿遺構で、孝徳期に「難波」から戻った中大兄らが一時住まいした「飛鳥川辺行宮」と考えられています。
 江口桂編の『古代官衙』p51から54に詳しい記述があり、「出土土器からここは7世紀中頃に造営され、特段の改築もないまま、平城京遷都のころに火災で焼失したようだ」と書かれています。
 ただしこの比定に対しては、ここ稲淵川周辺が古代において飛鳥に入っていたかどうかわからないとの反対意見もあるようです。
 ただし土器の出土状況を報告書で確認しないと、本当にこの宮殿が7世紀中頃造営かどうはは確定できません。むしろ7世紀中ごろに廃絶したのかもしれませんね。

追伸
 大和の東偏遺跡群の中の「桧隈前」遺跡ですが、これは西偏ですね。
 遺構図の中の
  http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m120910-88211/up.jpg
 四面庇の建物の向きを見てみると、短辺が西に向いています。
 このような建物の場合、長辺が正面となりますので。

追伸
 「平尾山」遺跡も西偏ではないだろうか。
 主殿である四面庇の建物の向きに注意。正面である長辺が南東を向いている。

 この四面庇の建物の正面を考えると、「上之宮」遺跡も東偏ではなくて、西偏と考えるべきではないでしょうか。

 大和の東偏官衙遺構。
 もういちど、中心建物の四面庇の建物の向きに注意してやりなおしてみたらどうでしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

前に掲載した時,川瀬さんの反応がなかったので,
どうしてなのだろうとくすぶっていました。
江口圭編集『古代官衙』(ニューサイエンス社)のP39をしっかり飾っていましたね。

川瀬さんへ
いろいろなコメントありがとうございます。

上之宮遺跡の場合,全体的な遺跡の形や
Ⅳ期の四面庇建物への入口の位置から,
「東偏」と言っていいですかね。

何度目かの追伸

 前にかいた「稲淵川西」遺跡。
 遺構図よりもはっきりした遺構模式図があるのですが、これを見ると東偏と判断して良いのかどうか、西偏と判断した方が良いのではと思います。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m121173-92482/etc.jpg

 中央下部に四面庇の建物があるのですが、その周りにある3つの建物は皆片面庇で、庇がすべて四面庇の建物の方を向いています。どうやらこの遺跡はまだ南西側にまだまだ遺構が眠っているような気がします。
 つまり四面庇に主殿は四面を片面庇の建物で囲まれているのではないか。その囲まれた中庭は石が全面にびっしり敷かれている。
 したがって門は、東側の2棟の間の空間。
 そして遺構図を見ると
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m121173-92482/up.jpg
 この遺跡の場所は図の左側から右側にかけて傾斜している。つまり右側が山の緩い斜面の下方にあるので、建物群の正面は右側ではないか。
 と考えると西偏とした方が良いと思います。

さらに追伸
>上之宮遺跡の場合,全体的な遺跡の形やⅣ期の四面庇建物への入口の位置から, 「東偏」と言っていいですかね。

 門に目を付けたことは良いと思います。そして発掘報告者もここが表門でさらに外側にも溝があるので中門だと判断しています。
 でもデータベースの建物の方を見るともう一つ門がある。それはSD06の途切れの場所。ちょうど主殿のSB06の正面です。したがってこちらが中門で表門です。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m111074-11516/84915.jpg

 したがって上之宮遺跡は西偏の遺構と判断します。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

図面に載せていない部分により大きな門があるということですね。
それが西側であると。

84915           
上之宮
素掘溝SD06途切れ  
1              
1              
5.4             
3.6             
19.44            
掘立            
側柱建物         
門              

>図面に載せていない部分により大きな門があるということですね。
それが西側であると。

 SD06は東側。この溝の途切れにより大型の門がある。西側はSD07。

またまた追伸

 上之宮遺跡の場所をYAHOOの地形図で確認してみる。奈良情報商業高等学校のすぐ東側だ。
 https://map.yahoo.co.jp/maps?p=%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E6%A1%9C%E4%BA%95%E5%B8%82%E6%B2%B3%E8%A5%BF%EF%BC%97%EF%BC%97%EF%BC%90&lat=34.5011446&lon=135.8469300&ei=utf-8&datum=wgs&lnm=%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%83%85%E5%A0%B1%E5%95%86%E6%A5%AD%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1&v=2&sc=3&uid=7b25604a27f5eff8a9d9c995938fc21353fc4faf&fa=ids

 ここは東側の川の河岸段丘。
 したがって東側が川なのでこちらに向かって緩い傾斜面となっている。
 だから主殿の裏にある園池遺構から水路が東側に向かって引かれているわけだ。
 この地形を考えてみても、宮殿の正門は川側、すなわち東側。

肥沼さんへ

 大和国の官衙遺構を再度精査してみました。建物の方角と時代別に分類しました。結果はとても面白いものでした。

 ★奈良県(大和国)官衙遺構・方位年代別分類

★東偏遺構

①5世紀~6世紀後半
●和邇・天理 11次:山の西麓和邇氏豪族居館? 11次東偏5度:古墳時代前期⇒正方位
●極楽寺ヒビキ・御所 居館? 東偏18度 門西南 5世紀
●脇本・櫻井 居館?宮? 東偏(5世紀後半・6世紀後半 65度東偏 廂西南向)⇒正方位(7世紀後半)
●南郷遺跡群井戸大田台・御所 居館 5~6世紀 東偏75度 東向きの尾根筋 最上部に南北に正
倉並ぶ
●南郷遺跡群南郷安田・御所 居館?祭祀場?東偏55度~6世紀

②7世紀末以降
●五条野内垣内・橿原 宮殿か官衙 正殿東偏3度 7世紀末~8世紀初 藤原京期
●八条北・大和郡山 Ⅱ期東偏10度・Ⅲ期正方位 8世紀前半~平安


★西偏遺構

①5世紀末葉~6世紀
〇和邇・天理:14次北側川平地:西偏8度 5世紀末葉以降~⇒正方位の四面廂掘立柱建物 (正方位の居館)


②6世紀後半~
〇上之宮・櫻井 宮殿 6世紀後半~7世紀初頭⇒西偏75度
〇平尾山・天理 居館 6世紀末葉~7世紀前半 丘の北斜面 四面廂北西向 ⇒西偏40度
〇飛鳥京:高市郡明日香 岡本宮:7世紀前半 西偏25度
〇香山正倉・橿原 7世紀代 廂西向き 西偏なら80度から85度 ⇒正方位
〇稲淵川西・高市郡 飛鳥河辺行宮⇒7世紀中葉~末葉 75度西偏
〇東橘・高市郡明日香 嶋宮? 西偏 7世紀中葉から後半
〇檜前・高市郡⇒西偏75度 7世紀後半 居宅
〇西田中・大和郡山 瓦工房7世紀末~ 西偏75度 遺構全体像不明
〇宮滝・吉野郡 吉野宮 7世紀後半 西偏⇒正方位

③8世紀~
〇大柳生ヒロタ・奈良市・西偏15度 8世紀後半 生産施設


★正方位遺構

①7世紀中ごろ~
〇飛鳥京・高市郡明日香 飛鳥板蓋宮・後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮 7世紀中ごろ~ 正方位
〇五条野向イ・橿原 宮殿 ほぼ正方位東偏1度 飛鳥~藤原京期
〇藤原京・橿原 7世紀末~
〇平城京・奈良 8世紀初~
〇上宮・生駒郡斑鳩 称徳朝飽波宮か 6世紀から8世紀 7世紀前半の遺物多し 正方位
〇雷丘東方・高市郡明日香 小治田宮 正方位 ~9世紀初頭
〇雷丘北方・高市郡明日香 宮? 正方位 7世紀後半~9世紀
〇石神・高市郡明日香 宮殿関連 正方位 7世紀前半から末葉

 (1)大和国では古墳時代の後半から6世紀代までの豪族の居館や宮と考えられる遺構は東偏で建てられていました。
 この傾向が大きく変わるのが6世紀後半以降です。
 (2)これ以前から西偏の居館はありましたが、厩戸皇子の上之宮を画期として、宮や居館はすべて西偏となっていったのです。
 (3)さらにこの傾向に変化が生じたのが7世紀中頃以後です。
 なんと宮や官衙遺構が正方位に変わったのです。

 (1)は九州王朝が南朝に朝貢している時期では、豪族の居館や宮は東偏であることを示します。
 (2)はちょうど中国が隋によって統一されていく過程であり、同じ時期に九州王朝が隋に対抗するようにして国家統一を進め、宮などを正方位にした時代と考えられます。この時期に近畿天皇家はわざわざ宮を西偏に変えます。この動きは興味深いです。
 (3)はまさしく九州王朝が隋に続いて唐とも対抗関係に入って行った時期です。この時期に近畿天皇家は宮を九州王朝と同じく正方位に変えます。この行動は何を意味するのでしょうね。

 大和国の官衙遺跡の分析はとても興味深い結果を示しました。そしてこれは先に大和国の寺院遺跡の分析結果ともほぼ同じでした。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 大和国の官衙遺構を再度精査してみました。
 建物の方角と時代別に分類しました。
 結果はとても面白いものでした。

ご苦労様でした。

〉  大和国の官衙遺跡の分析はとても興味深い結果を示しました。
 そしてこれは先に大和国の寺院遺跡の分析結果ともほぼ同じでした。

やはり.方位は日本の歴史を雄弁に語っていたようです。
私たちは,ようやく歴史解明のスタート地点に立てました。

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