正方位の都は,こうして生まれてきた(川瀬さん)
この話はコメントの中で川瀬さんに書いていただいたものです。
コメントではもったいないので,本文に載せさせていただきます。(肥沼)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中国の統一王朝では天子は天の意志によって天下の統治を任せる人として選ばれた
という思想で成り立っており、そのため天の中心である北極点(北極星)を背中に背負って
国家を統治するので、天子の宮殿は南面して作られた。
だが中国の王が天子を名乗る前は、都の中心は王の祖先を祭る宗廟であり、
宗廟に挟まれる形で王宮が作られていた。これは最初に皇帝を名乗って天の指示で天下を統治するとした
秦の始皇帝の時代でも都の設計思想は前代を踏襲し、これは秦に次ぐ統一王朝である漢でも同じであった。
この思想に変化が出て、天子が天を背景にして統治することを都城の形にする思想が、
前漢の最後の時期から後漢の最初に生まれ出た。
理由は漢帝国成立から200年近く経って、漢の王室自身が始祖劉邦の血筋からは遠く離れて
直系とは言えない状態になり、天子の統治権の権威自体が揺らいできたからだ。
このためそれまで都とは離れた土地に天(神)と地(神)を祀る施設を置き、
そこで天子が祭礼を主催していた形式を改め、天と地を祀る祭壇を都の南北に置き、
天子が都の官僚や民の前で天と地の神を祀ることで、天下の統治を任されていることを具現化することで、天子の権威を維持しようとした。
これが確立したのが後漢王朝の時代。
だが天を祀る場所は都の南に、そして地を祀る場所は都の北に置いたが
(つまり南面する天子の宮殿の北と南に神を置いた)、
その祭壇は都の北と南の目立つ高地に置かれたため、
地壇ー宮殿ー天壇を結ぶ線は、必ずしも南北を結んだものではなかった。
そして後漢の時代にはまだ、この南北線を都の中心線とし、
ここを基準に東西南北の街路を築いて、官衙や寺院や役人庶民の家を配置する
という形・思想にはなっていなかった。
このため後漢の時代、そしてその後の三国時代の各都や再度統一した魏・晋の都も
後漢時代の設計プランを踏襲し、結果として都の南北軸は東に傾いたものとなっていた。
倭国が初めて中国王朝から冊封され、倭国王の称号を賜ったのは後漢の時代であり、
次いで魏、そして晋・南朝の時代を通じて倭国は中国王朝から倭国王に冊封されてきた。
したがってこの時期の倭国の都は後漢から始まる形の都城設計思想にならったものとなる。
これが変化したのが北朝の北魏の時代で、地壇と天壇をともに都の郊外に人工の山を作って
祀る形にしたので地壇ー宮殿ー天壇を結ぶ線を正方位の南北に設定でき、
この線を基準線にして都城を東西南北の街路で区切った形に設計した。
文字通りに天子が南面して天下を統治する思想を都の形として具現化したのだ。
だが倭国は北朝に朝貢していなかったので、この新しい思想が伝わるのは、
北朝から出た隋が南北を統一して以後のこととなる。
« 磯野貴理子さんの「脳梗塞体験」 | トップページ | 『たの授』10月号の感想 »
「古田史学」カテゴリの記事
- 払田の柵の柱の年輪年代について(2021.01.25)
- やはり入手しておくか(2021.01.22)
- 新田郡庁跡と泉官衙遺跡の時期の比較(2021.01.20)
- 日本最大の大きさの「新田郡衙遺跡」(2021.01.18)
- 郡山遺跡Ⅱ期と多賀城Ⅱ期の「石敷き」(2021.01.18)
コメント