« 『たの授』10月号の感想 | トップページ | 息子の手料理 10/9 »

2018年10月10日 (水)

かつてそこに「エビス御殿」があった!(かも)

2005年7月の京都での古田武彦氏講演会の中で,
古田氏がこんな話をしている。
藤原京(まで)には大極殿がなかった。だから.平城京に遷都した。という趣旨の話。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 最後のテーマをもうします。
 今年の三月、奈良県飛鳥の天武天皇の浄御原宮跡の現地説明会に、古田史学の会のみなさんと行きました。
見て驚いた。遺跡が ”小さい" の一言につきる。せいぜい一地方豪族の館程度のレベル。しかもかんじん要の「大極殿」がない。ですが学者の一部が見なしているのが東南の「エビノコ郭」。しかし大部分の学者がそれには賛成しない。これも、そのとおりです。「大極殿」と言う以上は、中心か北部になければならない。東南の端では位置がメチャクチャ。他にないから、ここだよ。そう言ってみても、他の学者が認めるわけもない。そういう状況です。とにかく「大極殿」がない。

 「エビノコ」というのは、先ほどお話した問題と関係がある。淡路島で生まれたのは輝ける蛭子(ひるこ)。それは恵比須(えびす)と同じであるとされている。「エビス」の「エ」は、輝けるという意味。「ヒ」は太陽の「日」。「ス」は須磨、鳥栖と同じでして住まいの「ス」。「エビス」は「輝ける太陽の住まい」という意味です。先ほどそう言いました。ここの地名は「エビノコ」とあるが、字地名としては、「エビスノコ」です。「コ」は住まいという意味です。ここにおられる神が「エビスノコ」です。この字地名は、神武や天照大神より、ズッと古い。旧石器・縄文にさかのぼる神様の名前です。それが字地名で残っている。そこに建てられていた建物は、もちろん七世紀後半ぐらいの建物です。それを仕方がないので、字地名を取って「えびすのこ」。長すぎるので、これを縮めて「エビノコ」とし、そこにあった建物を「エビノコ郭」と称した。要するに「大極殿」はなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古田氏が話している趣旨とは違うが,
エビノコ郭に九州王朝の天皇(その頃.大和のリーダーは大王)を住まわせる理由として,
空いていた土地に縁起のいい名前を付けてご機嫌を取ったのではないかと考えた。

「ここを,エビス御殿と名づけました。
どうぞこの建物をご利用下さい」と。

もし飛鳥宮の北に建てれば.それこそ「大極殿」になってしまうし,
南なら飛鳥宮の南門(?)から出る際の邪魔になる。
飛鳥宮の運営に支障がない上に,九州王朝の天皇として,
威厳を保つのにふさわしい呼び方がそれだったのではないかと考えた。
九州王朝の天皇もこの配慮に,「エビス顔」だったかも知れません。
(王朝の滅亡まであとわずか.と知ってか知らずか・・・.)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「エビノコ郭」という名前を初めて聞いた時,私は「なんじゃ.その変な名前」と思った。
それが,飛鳥宮内最大の建物の,7間×4間を超える破格の9間×5間の四面庇建物。
おまけに玉砂利付きだというから,ここに住めるのはもう.九州王朝の天皇しかいないと考えた。
そこに加えて,古田氏の「エビス=輝ける太陽の住まい」説である。
もう.これは「エビス御殿」というしかないでしょ。

エビノコというのは,かつてここに「エビス御殿と呼ばれる住まい」があったよ
という証拠の残存地名=字名なのではないかな?

Photo

Dscn3842_2

(写真をクリックすると拡大します)

« 『たの授』10月号の感想 | トップページ | 息子の手料理 10/9 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 「ヱビス御殿」説。
 とても良いと思います。古田さんはたしかにここまで踏み込んでいませんが、
このままではなぜここに神武や天照よりも古い神の名前が地名となっているのかを説明できません。
 九州王朝の天子の住まいとして「ヱビス御殿」を作った。その歴史的事実の残存地名。
 とても良い推理だと思います。
 そして飛鳥京の遺跡事実と私の天武紀の読みが、この理解の根拠となる。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

川瀬さんの「天武紀の読み」と一致したとあらば.「百人力」です。
亡くなった古田さんにも喜んでいただけそうですね。(o^-^o)

肥沼さんへ

>川瀬さんの「天武紀の読み」と一致したとあらば.「百人力」です。
 「一致したとあらば」?
 『誰のための「エビノコ郭」か』のコメントに、私の天武紀の読みをコピーし、「エビノコ郭に住んだのは九州王朝の天子だ」との肥沼説に賛意を示すとともに、「同じ見解だ」と書いたはずです。
 よまなかったのかな?
 長いから読み飛ばしたのじゃないかな?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  『誰のための「エビノコ郭」か』のコメントに、私の天武紀の読みをコピーし、「エビノコ郭に住んだのは九州王朝の天子だ」との肥沼説に賛意を示すとともに、「同じ見解だ」と書いたはずです。
 よまなかったのかな?
 長いから読み飛ばしたのじゃないかな?

えっ.どういうことでしょうか?
私のところに届いているのは,上記の
「~そして飛鳥京の遺跡事実と私の天武紀の読みが、この理解の根拠となる。」までなのですが・・・。
続きがあったのでしょうか?

川瀬さんの「天武紀の読み」の部分が届いていない?

川瀬さんへ

別項の「誰のための「エビノコ郭」か」についての,
川瀬さんの長いコメントのことですね。

「肥沼さんへ
 肥沼さんも私と同じ結論に到達したようですね。
 そうです。「エビノコ郭」はどう見ても宮の本体の正殿よりも大規模だ。つまり天武の居する後飛鳥岡本宮の正殿より大きいのですから、こちらには天武より偉い人物が住んでいたとしか考えられない。でも一元史観ではそんな人物は居ないので、ここに天武は居を移したと読み、書紀が書いたように「エビノコ郭」こそ「飛鳥浄御原宮」だとした。
 私は「書紀天武紀持統紀宮関係記事の精査」で次のように論じました。
 http://kawa-k.vis.ne.jp/2017806tenmu
 ①二年春正月丁亥朔癸巳、置酒宴群臣。二月丁巳朔癸未、天皇命有司設壇場、卽帝位於飛鳥淨御原宮。
 ※これは明らかに近畿の王天武の行動である。そして彼が即位したのは飛鳥淨御原宮と書紀は記す。
 この宮のことは、書紀天武紀上の最後、壬申の乱終結後の記事として初めてでている。
 すなわち、
「九月己丑朔丙申、車駕還宿伊勢桑名。丁酉宿鈴鹿、戊戌宿阿閉、己亥宿名張、庚子詣于倭京而御嶋宮。癸卯、自嶋宮移岡本宮。是歲、營宮室於岡本宮南。卽冬、遷以居焉、是謂飛鳥淨御原宮。」である。
 天武は「倭京」に戻って最初は嶋宮におり、その後岡本宮に移った。「倭京」とは倭の国の都、飛鳥を指していると思われる。
 この文章の形は不審である。明らかに天武の行動なのに、主語が省略される形式となっている。天武紀の他の箇所ではすべて天武の行動のときは主語を明記している。
 あるいはこれは九州王朝の天子の行動だったのだろうか。
 九州王朝の天子が車駕で桑名⇒鈴鹿⇒阿閉⇒名張⇒倭京と移動した。
 であるならば、なんと天武は近江朝廷に反旗を翻したとき、九州王朝天子を陣営に迎え入れており、その「錦の御旗」の下で近江朝廷と戦ったと。つまり「壬申の乱」とは、九州王朝に反旗を翻して近江朝廷を名乗った天智=大友政権を倒すために、本家九州王朝天子を旗印にして天武が起こした行動ということになる。
 考えてもいない事実の出現!
 そしてそのあとの文章も不審である。岡本宮の南に宮室を造ると記しながら時期を明示せず、同じく時期を明示せずに冬にこの宮室に移ったと書いておいて、宮の名は飛鳥淨御原宮と。
 しかもこの文でも「營宮室於岡本宮南」の主語も、「卽冬、遷以居焉」の主語も省略されている。
 ということは、岡本の宮の南に宮室を造営させたのもそこにこの冬に遷ったのも九州王朝天子であったということを意味する。
 天武は近江朝廷を倒すために九州王朝の権威を頂いたのだ。
 この岡本宮の南の九州王朝天子のための新たな宮室の名は飛鳥淨御原宮だと書紀は記す。
 このことはこの記事が、書紀編者の造作である可能性を示している。
 つまり天武が即位した宮を、九州王朝の朱鳥元年改元とともに完成した飛鳥淨御原宮であるかのように見せかけるために。
 岡本宮の南に新たに作られた宮室。
 飛鳥京の遺構と照らし合わせてみればこれは「エビノコ郭」以外にありません。」

これのことですよね。
当然読ませていただいています。
私の表現が良くなかったのかな?
私たち二人が,違う角度から検討して,
それでも同じ結論に達したことを喜んでいるのですが?

前回は,「エビノコ郭」が誰のものか.についての見解の一致。
今回は「エビス御殿の名前の由来」についての見解の一致.と分けて考え,
「こちらも一致しましたね」と.(半分自信がなかったもので)「百人力」と書いたわけです。

肥沼さんへ

>「こちらも一致しましたね」と.(半分自信がなかったもので)「百人力」と書いたわけです。
 これなら正確に意図が伝わります。
 しかし、
>一致したとあらば.「百人力」です。
 では意味が通じませんね。二人の見解が一致していることに気が付いていないと読める。
 肥沼さんの表現が舌足らずだったのですね。

 ところで明日は府中のふるさと歴史館での研究会です。午後2時過ぎから。
 宿題を出しておきましたが、お忘れなく。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ところで明日は府中のふるさと歴史館での研究会です。午後2時過ぎから。

では,明日。よろしくお願いいたします。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 『たの授』10月号の感想 | トップページ | 息子の手料理 10/9 »

2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

最近のトラックバック

無料ブログはココログ