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2018年10月13日 (土)

府中研究会 10/12

川瀬さんとの武蔵国府・武蔵国分寺に関する「府中研究会」も3か月となった。
この間あっちに行ったり,こっちに来たり,いろいろな動きをしながら,
ようやく初期の様子を報告できる段階が近づいてきたような感じだ。
来週水曜日にもう1回確認作業をして,まとめの段階に入る。

府中・国分寺に関する調査は,方位(東偏)に関する新知見を生み,
九州王朝の歴史に光を当てていく研究につながった。
これをさらに広げていきたい。
私の強引な,それでいて優柔不断に見えるやり方に
我慢強くお付き合いいただいた川瀬さんに感謝したい。
また,山田さんには,いつもメールで励ましていただいていた。
ありがとうございました。m●m

【昨日の話題から】 (文責・肥沼)

(1) 九州王朝は,古田さんの初期三部作で証明しつくされている!(中国正史など) 

(2) 福原長者原遺跡で,AD120年というC14の数値が出ていたらしい。なんと,卑弥呼より前だ!

(3) 倭の五王は,陳には使いを派遣していない。もうこの時点で南朝を見限っていたかも。

(4) 前方後円墳の普及だけがあっという間に行われ,他のものの伝播に50年は,ご都合主義では? 

(5) ONライン(700年まで九州王朝が主権者。大和王朝が主権者になったのは701年以降)を
 フル活用して歴史を見ていくことが大切。(゜三本の矢」の行方は・・・)


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
 昨日は長時間私の話に突き合わせてしまいました。御疲れ様です。
 武蔵国府と国分寺の探索はとんでもないところに向かっていきました。それはやはり肥沼さんが現在の府中市街の下に東偏の古い市街があることに気が付き、それが九州王朝によるものだと直感され、私や山田さんの「慎重に」との注意も聞かずにまっしぐらに探索に走り、中国南朝の都が東偏であることを見つけられたことが基盤です。
 この結果東偏の寺院や宮殿や都市の遺構は九州王朝が南朝に朝貢している時代の産物である可能性が高まり、これによって従来の土師器や須恵器の編年、そして瓦の編年にも大きな変更を迫ることになりました。従来畿内を基準にして東や西の「僻遠」の地にこれらの文物が広がるのには50年から100年の時間差があったと考えられてきましたがそうではなく、これらの文物は全国に一斉に広まったと考えるしかないという方向に歴史の探求は必然的に行き着きます。
 ようやく考古学も含めた古代史学界の近畿一元史観に変更を迫ることのできる考古学的証拠が見えてきたのです。

 まとまめられたことへの追加と変更。
(1) 九州王朝は,古田さんの初期三部作で証明しつくされている!(中国正史など) 
 九州王朝が700年までは日本列島の中心王朝であったことは、古田さんが中国の正史という一級の史料に依拠して証明された確固とした事実である。
 「魏志倭人伝」で魏の使いは九州博多湾岸までしか行っていない。つまり倭王の都はそこにある。「隋書タイ国伝」で隋の使いが会ったタイ国王は男性で后とたくさんの後宮の女性をはべらせていた。これは近畿天皇家の推古女帝ではない。そしてタイ国の代表的な山は阿蘇山。さらに魏志と隋書の間にある中国史書はみな、そこに書かれた倭とは、魏志の倭でありかつ後漢書に書かれた倭であることを明記し、一貫した王朝であることを証明した。最後に「旧唐書倭国日本伝」は以上の事実を確認したうえで、倭国はその名が雅ならざるゆえに日本国と国名を変えたこと、そして今の日本国は倭国の別種で小国であり、倭国を併せたのだと、王朝交代の事実を告げていた。
 以上の中国正史に依拠した論証は論破不可能なもので、さらに書紀古事記の論証で近畿天皇家自身が九州王朝の分家である事実を表明していることが明らかにされ、九州王朝が700年までは日本の代表王朝であるという論は確固とした日本と中国の一級資料で証明されている。
 これでは近畿天皇家は万世一系の聖なる王朝だとのイデオロギーが崩れるので、日本古代史学会は古田さんの説を無視することにしたのだ。

(2) 福原長者原遺跡で,AD120年というC14の数値が出ていたらしい。なんと,卑弥呼より前だ!
 数字を間違えました。
 正しくはAD80-240年です。卑弥呼の時代とその前。測定した炭化物は、Ⅱ期南門の柱穴P9の柱痕跡の中の礎板(柱の沈下を防ぐために穴に挿入した石の板)直上にあったもの。発掘状況からはどうみても後世の混入物ではありえない。つまりこの南門は同じ柱穴で何回か建て替えられており、その中の最も古い時期の柱の痕跡がこの炭化物である可能性を示している。
 なんとこの遺構は1~3世紀の九州王朝の宮殿もしくは神殿である可能性が。
 「東九州自動車道関係埋蔵文化財調査報告-13-福岡県行橋市所在遺跡の調査 福原長者原遺跡第3次調査 福原寄原遺跡第2・3次調査」のp124からの「放射性炭素年代測定」による。
 http://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/114748_17946934_misc.pdf

(3) 倭の五王は,陳には使いを派遣していない。もうこの時点で南朝を見限っていたかも。
 倭王が中国南朝から自らの支配権を認められたのは、「梁」の天監元年(502年)」が最後。梁の武帝が倭王武を従来の鎮東大将軍から征東大将軍に位をあげた。以後南朝に対する倭国朝貢の記事は見られない。この時期は北朝の北魏が華北を統一してさらに華南に侵攻し、494年に都を大同(今の北京)から洛陽に移し、さらに江南地方の南朝を征服せんと動き出した時期。これ以後北魏と南朝の南斉・梁との間で、高句麗・百済・新羅の各王を相互に任命獲得合戦が繰り広げられる。
 これは中国で南北朝の戦乱が終りかけ、同時に朝鮮半島でも百済新羅の勢力がまして倭国領である任那の存続が怪しくなり、三国による統一戦争が勃発した時期。この中で新羅と倭とが中国王朝からの独立路線を取り始めたのではないか。新羅の法興王は520年に律令を制定し、536年には年号を建元する。同じことが倭国でも進んでいたのではないか。磐井の墓の衙頭にみる律令の痕跡と九州年号の始まりがその証拠か?

(4) 前方後円墳の普及だけがあっという間に行われ,他のものの伝播に50年は,ご都合主義では?
 権力を象徴する前方後円墳だけが畿内から一気に全国に全般したから大和が中心というのは一元史観に基づくご都合主義。ならば瓦も須恵器も寺院も全国一律に一気に普及したと判断すべき。そうしなかったのは列島における統一権力の成立を4世紀に大和が手を付け始め701年に完成したという一元史観に立っているからだ。倭国による日本統一は南朝・宋に倭国王と認定された時期・5世紀中頃で中心は九州だ。

(5) ONライン(700年まで九州王朝が主権者。大和王朝が主権者になったのは701年以降)を フル活用して歴史を見ていくことが大切。(゜三本の矢」の行方は・・・)
 700年までは九州王朝が主権者であるという史料で確定した事実に反する考古学的見解はみな間違いであるという姿勢で臨み、その間違いを正さなければいけない。北九州に巨大古墳がないという事実から近畿が中心との説・前期難波宮が7世紀半ばの近畿の王孝徳の宮という説・7世紀代の古い寺院が北九州にないという考古学編年。これらはみな近畿一元史観に依拠した妄説である。

 いろいろなお話をしてしまいましたね。
 要約をありがとうございます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 まとまめられたことへの追加と変更。

追加と変更をありがとうございました。
皆さんに要約だけでもお知らせしようと書いてみましたが,
川瀬さんに補っていただいて「重み」がさらに増しました。

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