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2018年10月22日 (月)

「東偏」は,殷・周に遡る(のかも)

秦の都の方位を調べたら,ほぼ正方位のようだ。
前漢の都の方位も同様だ。
もう,こうなったらさらに古い時代に進むしかない!

と思って,前に自分で殷や周のことを書いたことがあるのを思い出した。


「「歴史の発達段階」とともに変わる都づくり(おもいつき)」

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/09/post-51a6.html

この殷の図の中で,庶民の住むスペースは東偏である。
周の場合,ちょっとはっきりしないが,「なんとなく東偏」のようだ。
(宮殿の付近だけ「正方位」か)
そこに「使人自ら大夫と称す」の人々が行ったとしたら,
彼らが目にしたのは「東偏の街並み」であったのではないだろうか。

三国志・魏志倭人伝には,「古より以来,其の使中国に詣るや,皆自ら大夫と称す」とあり,
後漢書・倭伝には,「建武中元二年,倭奴国,奉貢蝶がす。使人自ら大夫と称す」とある。
これは,夏・殷・周の古制とされている「卿・大夫・士」にならったものだそうだ。
(古田武彦著『失われた九州王朝』(ミネルヴァ書房)P33)

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ウィキペディア「後漢」

思想[編集]

前漢中期から儒教の勢力が強くなり、国教の地位を確保していたが、
光武帝は王莽のような簒奪者を再び出さないために更に儒教の力を強めようとした。
郷挙里選の科目の中でも孝廉(こうれん、親孝行で廉直な人物のこと)を特に重視した。
また前漢に倣って洛陽に太学(現在で言えば大学)を設立し、五経博士を置いて学生達に儒教を教授させた。
孔子の故郷である曲阜で孔子を盛大に祀って、孔子の祭祀は国家事業とした。
また民間にも儒教を浸透させるために親孝行を為した民衆を称揚したりした。
また法制上でも子が親を告発した場合は告発は受け入れられなかったり、
親を殺された場合は敵討ちで相手を殺しても無罪になったりしていた。
これらの政策の結果、官僚・民間ほぼ全てにわたって儒教の優位性が確立されることになる。

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大雑把な「都の方位」の年表

夏・・・西偏?

殷・・・東偏
周・・・東偏

秦・・・正方位?
前漢・・・正方位?
新・・・?
後漢・・・東偏

三国時代・・・魏は東偏

南北朝(南朝は東偏)

隋・・・正方位
唐・・・正方位

以降,正方位

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
>三国志・魏志倭人伝には,「古より以来,其の使中国に詣るや,皆自ら大夫と称す」とあり,
後漢書・倭伝には,「建武中元二年,倭奴国,奉貢蝶がす。使人自ら大夫と称す」とある。
これは,夏・殷・周の古制とされている「卿・大夫・士」にならったものだそうだ。
(古田武彦著『失われた九州王朝』(ミネルヴァ書房)P33)

 これは古田さんが漢代の書『論衡』の記述に注目したものですね。
 「成王のとき、倭人暢草を貢す」ですか。紀元前11から12世紀のとき。最近では放射性炭素による年代測定で弥生の開始が700年ほど遡っているから、ほぼ弥生の始原の時期ですね。
 ただこれいぜんの夏・殷・周の王都の遺構が完全に出ていないとおもうので、王都の方位を確定するのは難しいのではないか。
 とくに王都に軸線が生まれていれば方位が問題になるが、軸線がないと方位を考えることもできない。
 「周代からその王都の方位に倣った可能性あり」は論理としては頷けますので、遺構を一つ一つ確認する必要があるでしょうね。
 「夏」代の宮殿遺構としては、「二里頭遺跡」があります。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8C%E9%A0%AD%E9%81%BA%E8%B7%A1
 この遺構図を見ると、「大門ー主殿」という軸があり、これは西偏です。
 
 次の「殷」の時代。
 長く「殷墟」が都だとされてきましたが、最近はそれより古い都である、
  ・鄭州市の二里岡遺跡:周囲約7kmの城壁に囲まれた都城
  ・偃師商城:偃師の尸郷溝で見つかった大規模な都城。
  ・洹北商城:殷墟のすぐ北東の花園荘村で見つかった大規模な都城。
 最近は殷中期の都は殷墟ではなく洹北商城ではないかと言われている。
 これらの都城の図面が見たいですね。

 次の今問題になる「周」の時代
  ・最初は今の長安、のち今の洛陽に遷都している。
  この二つの都の遺構は見つかっているのだろうか?

 まずここを確実に押えたいですね。

追伸

 三国時代の魏の都は後漢の都と同じです。だから「漢魏洛陽城」と呼ばれる。
 この都は東偏です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

話題を膨らませていただき,感謝です。
皆さんにも,イメージが伝わり易くなったと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

魏の「東偏」と夏の「西偏」を書き加えました。

肥沼さんへ

 周・前漢・後漢・魏の各時代の洛陽とそれぞれの関係について、興味深い情報がありました。
 「前 漢代の洛陽と後漢代の長安」
 http://heartland.geocities.jp/zae06141/han_history01.html

 西周は洛陽に「王城」と「成周」の二つの都市をつくり、王城が今の洛陽市の王城公園付近、成周は郊外の漢魏洛陽城の所だそうな。そして東周はこの成周に都を移した。
 のちに後漢が都を移した洛陽とは、この成周であり、ここが東周の首都であった故だとこのサイトの著者は述べています。
 ということは後漢と魏の洛陽城が東偏なのは、もともとの周の成周城が東偏だったからとなります。
 なお周王城はほぼ正方位のようです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  周・前漢・後漢・魏の各時代の洛陽とそれぞれの関係について、興味深い情報がありました。

はいはい,何でしょう?

〉  ということは後漢と魏の洛陽城が東偏なのは、
 もともとの周の成周城が東偏だったからとなります。
 なお周王城はほぼ正方位のようです。

なるほど。

肥沼さんへ
 23日に提示した漢魏洛陽城が西周の成周城の跡地だという情報。肥沼さんがあまり関心示さないとおもったら、8月に最初に洛陽について書いたブログにすでにこの情報があったからでしょうか。
 ところで先に示したサイト・「前 漢代の洛陽と後漢代の長安」
 http://heartland.geocities.jp/zae06141/han_history01.html
 に紹介されていた『洛陽ー先年帝都』(塩沢裕仁著 雄山閣刊)が面白そうなので買ってみました。

 洛陽になぜ1000年間も入れ代わり立ち代わり都が置かれたのかということを自然地理・人文地理学的に考察するとともに、洛陽地域で発見された考古学的遺跡を詳細を示して、この問いについて考えた学術的なものでした。
 この中に夏・殷・周・漢・魏・北魏・隋唐の洛陽城についての詳細な報告が掲載されています。

 夏:二里頭遺跡。夏の末期の宮城。遺跡の範囲は東西2.4キロ南北1.9キロ。その中に東西250m南北300mの城壁で囲まれた都。向きは西偏です。ただし城壁の規模はまだ小規模で厚さは2mなので宮殿の垣根程度。今のところ宮域に確認されたのは複数の回廊で囲まれた宮殿と墓所のみ。C14測定では紀元前1900~1500年ごろ。この宮を中心に東西南北に大道が作られていた。
 
 殷:偃師商城。殷初期の都。殷を建国した湯王の都と考えられている。東西1.2キロ南北1.7キロで厚さ18mの巨大な城壁で囲まれる。向きは東偏。内部には東西南北に交差する11条の大道が確認される。宮殿区には複数の回廊で囲まれた宮殿があった。C14測定では紀元前1700年頃。殷の二里岡遺跡より少し前の遺跡。

 周:東周王城。北側の城壁のみ残存。長さ2.9キロ。幅は10mほど。東西方向から12度ほど北に傾く(つまり西偏か?)。東周王城の中央部のみとした漢代の河南県城はほぼ正方位。東西1,5キロ南北1,4キロ。

 じっくり読んでまた報告します。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  23日に提示した漢魏洛陽城が西周の成周城の跡地だという情報。肥沼さんがあまり関心示さないとおもったら、8月に最初に洛陽について書いたブログにすでにこの情報があったからでしょうか。

そんなことないのですが,ここのところ倭の五王から一挙に飛んで古い時代に向かったので,
「時差ぼけ」を起こしているのかもしれません。

〉 『洛陽ー先年帝都』(塩沢裕仁著 雄山閣刊)

私も注文しました。

>そんなことないのですが,ここのところ倭の五王から一挙に飛んで古い時代に向かったので,
「時差ぼけ」を起こしているのかもしれません。

 時差ボケというより、焦点がずれているのかもしれません。
 前に南朝や漢・魏の都の軸を問題にしたとき、「都城に軸線が生まれたのは漢魏洛陽城だ」というテーゼがありましたね。
 つまり地壇ー宮殿ー天壇という都城の軸線が生まれたのが後漢洛陽城だと。
 言い換えれば都城を作るときに、軸線を設定してその方位に従ってつくるという思想が生まれたのがこの後漢の時代だということ。
 夏・殷・周と見てきましたが、どの都城にも軸線と言ってよいものがありません。都城全体の方位は測定できますが、たとえば殷だと初期王城の偃師商城は東偏ですが、殷墟は正方位。周だと王城は西偏で成周城は東偏です。同じ王朝でも違うということは、都城に軸がないから方位を考えてつくるという思想がないからと考えられます。

 やはり倭国の都城の方位に影響を与えた中国都城は、都城に軸線を設定した後漢洛陽城からと考えると良いのではないかというのが、今のところの結論です。
 夏以降の一つ一つの都城遺跡で確認していこうと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  やはり倭国の都城の方位に影響を与えた中国都城は、
都城に軸線を設定した後漢洛陽城からと考えると良いのではないかというのが、
今のところの結論です。

はい,わかりました。

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