『律令体制を支えた地方郡衙~弥勒寺遺跡群』
田中弘志著,新泉社刊,1500円+税の上記の本を入手した。
例の「東偏」関係の類似遺跡を求めてである。
岐阜県の長良川流域にあるこの遺跡は,7世紀後半から廃絶する10世紀の間に,
東偏から「西偏」「正方位」と変化する,「私好みの遺跡」なのである。
それを本日見つけてきたので,さっそく掲載しよう。例の「遺跡を学ぶ」シリーズの一冊だ。
まず,全体像から。
複合遺跡なので,分析が難しいのか,はたまた一元史観だからか,
奈良文化財研究所のデータベースも図を載せてくれていなかった。
そこで,上記の本の拡大図を載せてみることにする。
まず,一番東の館・厨地区というところである。
「この区域に展開する建物群は,ことごとく正倉院をとり囲む溝や
溝①(館・厨院をとり囲む施設か)に切られている」という解説が印象的である。
この「東偏」の建物を中心として,この地を治めた評督がいたと思う。
西に向かうと,そこには傾きが反対の「西偏」の郡衙(評衙)がある。
当然大きな歴史的変動があったと思われる。(九州王朝→大和王朝)
さらに西に向かうと,そこには正方位の郡寺が…。
これは8世紀に政権を握った大和王権が建てた郡寺ではないか。
そして,大和王権の行った律令制も10世紀には廃れていき,この寺も廃絶となった。
福島県の「泉官衙遺跡」とはまた違ったタイプの歴史が,ここには刻まれているのではないかと思った。
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肥沼さんへ
奈良文化財研究所のデータベースでは、「郡衙・居宅⇒弥勒寺東遺跡へ」と書いてあります。
その「弥勒寺東遺跡」を見ると詳しい発掘データが掲載されています。
また肥沼さんはこの遺跡群を「東偏⇒西偏⇒正方位」としていますが、データベースをよく見てみると、発掘者は違った解釈をしています。
データベースの寺院編の「弥勒寺」を見てみますと、この正方位の伽藍の年代は7世紀後葉となっているので、東偏の建物群と同じ時期です(弥勒寺東遺跡の建物データで両面廂の東向きの建物の年代が7世紀後半となっていました)。
だから遺跡群の方位は「東偏と正方位⇒西偏」となります。この西偏の郡庁が8世紀以後と判断されていてこの遺跡群の一番新しいものです。
ただこの郡庁の下に西偏度の少しきつい建物群があるので、これは7世紀後半に入ると判断されていてこれが「評衙」と判断され、東にある東偏の建物群は豪族の居宅と捉えられているようです。
そしてこの東偏の豪族居宅が西偏の建物群を取り囲む溝で切られているから一番古い建物群であることは明らかです。
したがってこの遺跡群は「①東偏の豪族居宅⇒②西偏遺跡群の下層の建物群(評衙)⇒③西偏遺跡群の上層の建物群(郡衙)」となり、この①②と重なる時期に正方位の伽藍の「弥勒寺」があったと判断されているようです。
したがって東偏の豪族居宅群と西偏の評衙とされる建物群、そして正方位の伽藍弥勒寺の三つが九州王朝時代です。最後の西偏の郡衙とされる建物群が近畿天皇家時代です。
投稿: 川瀬 | 2018年10月30日 (火) 00:15
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
①東偏の豪族居宅⇒②西偏遺跡群の下層の建物群(評衙)⇒③西偏遺跡群の上層の建物群(郡衙)
(①・➁と並行して,弥勒寺。これらは九州王朝の時代) (これが大和王朝の時代)
こういう形でよろしいでしょうか。弥勒寺については,正方位ということが引っかかっていました。
著者は,伽藍配置から「弥勒寺は古い」と考えているようですね。それならそれでいいと思います。
ただ,九州王朝も西偏の官衙を建てたということになり,頭の整理が必要になりました。
投稿: 肥さん | 2018年10月30日 (火) 05:30
肥沼さんへ
>ただ,九州王朝も西偏の官衙を建てたということになり,頭の整理が必要になりました
私はそうは考えません。
美濃国は近畿天皇家の畿内の隣の国。壬申の乱でも大海人皇子派がこの国を抑え、この国の兵に東国の兵を併せて、この兵力で近江朝の軍隊を撃破した。
美濃国もまた近畿天皇家の領域だったのだと思います。
したがって
②西偏遺跡群の下層の建物群(評衙)を作ったのは近畿天皇家だと思います。
おそらく①東偏の豪族居宅が最も古い遺跡群で、この遺跡を「7世紀後半」としたのは、掘立柱建物の柱穴などから出た土器が7世紀後半であったことから判断されたのであり、この東偏の豪族居館が廃絶された時代と考えれば良いと思います。
したがってこの居館は6世紀末からせいぜい7世紀初頭までだったのではないか。
そして美濃国にも評が設置された7世紀初頭以後、豪族居館の西側に評庁が西偏でつくられた。
さらに7世紀中期以後にその西側に評寺として正方位で作られたのが弥勒寺ではなかったか。
そして7世紀末から8世紀に入り近畿天皇家の時代になって評庁をもっと立派ものに建て替え(二重の溝で区画された)郡庁としたのだと。
東偏の豪族居宅群を切っている大きな溝は、評庁⇒郡庁への大規模な建て替えに伴って正倉院も含めた郡衙全体を区画する大溝として作られたもので、この溝が作られた時代が7世紀後半だったのではないでしょうか。だからこの工事に伴って豪族居館が取り壊され、その柱穴に7世紀後半の土器が混入した。
本を精査して、
豪族居館を7世紀後半とした根拠の確認。
郡庁を8世紀初頭とした根拠の確認。
さらに弥勒寺を7世紀後葉とした根拠の確認(伽藍の形式+白鳳瓦が出ているのではないか?)。
以上三点をやってみてください。
投稿: 川瀬 | 2018年10月30日 (火) 13:43
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 ②西偏遺跡群の下層の建物群(評衙)を作ったのは近畿天皇家だと思います。
評衙といっても,直轄地では「東偏」に建てたり,
大和王朝の近畿圏では「西偏」に建てたり,
色々だということですね。
投稿: 肥さん | 2018年10月30日 (火) 14:13
肥沼さんへ
>評衙といっても,直轄地では「東偏」に建てたり, 大和王朝の近畿圏では「西偏」に建てたり, 色々だということですね。
はい、そうです。
列島の各地域は、九州王朝の直轄地と、各分王朝の直轄地とに分かれます。ですから場所によって評衙といっても建設主体は異なります。そして「肥沼仮説」のように、その建物群の方位に建設主体の意図が反映されており、九州王朝は6世紀末まで東偏だと考える説が成り立てば、この時期の東偏の評衙は九州王朝が建設したと断定することも可能です。さらに大和国の古代官衙遺構と古代寺院遺構の検討で明らかになったように、近畿天皇家は6世紀末まではその官衙や宮を東偏で作っていたが、6世紀末以後は西偏に変えた事実は、近畿天皇家の政治的意図を示すことになります。すなわち九州王朝とは別の政治路線をとるとの政治意図です。
したがって6世紀末や7世紀初頭以後に西偏の建物群が出てくれば建設主体は近畿天皇家だと断定することも可能です。
したがって建物群が東偏=九州王朝が建設、西偏=近畿天皇家が建設ではないわけです。
肥沼さんはこういった思い込みをすでにしているように思います。
検討する建物群の年代をまず確認することが大事です。
今回の場合の美濃国は畿内のすぐ隣ですから、飛鳥編年でやっても、畿内地方とほぼ同じ年次であると土器や瓦は編年されていると思いますので、報告書などにある年代は概ね正しいと考えられます。
ただし何度も言いますが、掘立柱建物や礎石建物の建設年代は、柱穴や礎石の下の壺穴に、建設当初からあったと考えられる土器が出てこないかぎり、わからないものです(あとはその建設で先行する竪穴住居などが破壊された際に、埋もれた土器がないかぎり)。ですから報告書が「○世紀の建物」と言っていても、それは単にそれが廃棄された時期を指す可能性も高いので、報告書を精査して年代判定の根拠を確認しなければ確かなことは言えません。
以上気を付けてください。
投稿: 川瀬 | 2018年10月30日 (火) 17:39
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 さらに大和国の古代官衙遺構と古代寺院遺構の検討で明らかになったように、近畿天皇家は6世紀末まではその官衙や宮を東偏で作っていたが、6世紀末以後は西偏に変えた事実は、近畿天皇家の政治的意図を示すことになります。すなわち九州王朝とは別の政治路線をとるとの政治意図です。
したがって6世紀末や7世紀初頭以後に西偏の建物群が出てくれば建設主体は近畿天皇家だと断定することも可能です。
したがって建物群が東偏=九州王朝が建設、西偏=近畿天皇家が建設ではないわけです。
肥沼さんはこういった思い込みをすでにしているように思います。
これまで「東偏のみ」の「一刀流」でしたが,
これからは「東偏」「西偏」の「二刀流」でいきたいと思います。
今回は近畿圏だと思っていなかった地域の「西偏」だったので戸惑いましたが,
大和王朝の味方をする地域が増えた=九州王朝への支持が減った
という考え方でいいでしょうか?
投稿: 肥さん | 2018年10月31日 (水) 05:36
肥沼さんへ
>今回は近畿圏だと思っていなかった地域の「西偏」だったので戸惑いましたが, 大和王朝の味方をする地域が増えた=九州王朝への支持が減った という考え方でいいでしょうか?
これは美濃国がいつから大和の近畿天皇家の直轄地になったかという問題です。
今のところこれを確認できる史料の存在を、私は知りません。日本書紀の美濃関係記事を全部精査してみれば出てくるかもしれませんが。
投稿: 川瀬 | 2018年10月31日 (水) 12:01
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 これは美濃国がいつから大和の近畿天皇家の直轄地になったかという問題です。
今のところこれを確認できる史料の存在を、私は知りません。日本書紀の美濃関係記事を全部精査してみれば出てくるかもしれませんが。
そうなんですか。それはちょっと手間が掛かりそうですね。
投稿: 肥さん | 2018年11月 1日 (木) 04:19
肥沼さんへ
そんなに手間はかかりません。
「書紀」全文をデジタルデータ化したサイトがあるので、ここで「美濃」の単語検索を掛けてみれば、美濃国に関わる記述がすべて出てきます。これを精査する。
もう一つは、奈良文化財研究所のデータベースで岐阜県の古代官衙遺構と古代寺院遺構を全部ピックアップして、その方位と年代を精査してみる。これをやれば岐阜県(古代の美濃国と飛騨国だ)がどういう政治的立場であったかが「肥沼仮説」で明らかにできるはずです。
投稿: 川瀬 | 2018年11月 1日 (木) 14:00
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
全部いっぺんにはできませんが,
日本書紀の全文検索は前から興味があったので,
サイトを見つけて「美濃」でやってみたいと思います。
投稿: 肥さん | 2018年11月 2日 (金) 04:35