北秋津城・探検隊(2)
先程,北秋津城の堀の撮影に行ってきた。
Mさんの自宅を訪問すると,母と同い年のお父さんが
ちょうど電話をしているところだった。
電話が終わるのを待って,北秋津城の堀の撮影をしたい旨お話しした。
「団体は危ないからだめだが,個人ならOK」ということで山に入れていただいた。
子どもの頃遊んだ山は,さらにあの頃よりも鬱蒼(うっそう)としており,
高くなった木からは無数の落ち葉が落ち,隣人との間に物議をかもしているとか。
とにかく,10以上の蜘蛛の巣を顔にキャッチしながら,
久しぶりの哺乳類の侵入に喜んで飛んでくる蚊と戦いながら,
最高点を目指しての登山は続いた。
城の堀というのは,掘った土を土塁として積み上げるので,
最高点への道はすごく大変だった。(堀の外は案外高くない)
おそらく私が訪問したのは内堀で,外堀はさらに外側を廻っているのだろう。
ようやく最高点に達したと思ったら,今度は一気に堀の底へ。
それは剛速球の直後に,三振を取るために投げられたフォークボールを思わせた。
「すべって転んで大分県」にならないように,慎重に下っていく。
この時顔に浴びせられる蜘蛛のネット攻撃は,たまらない不愉快さであった。
そうやって苦労して撮影した写真を,7枚紹介しよう。
写真というのは,それを撮れる安定した場所でしか撮れない。
つまり一番きつい状態は,写真に撮られていないことをご承知おき下さい。
最高点
堀の底
堀の底
堀の南側(高~い)
堀の北側(それほどでもない)
堀の底(左が北側・右が南側)
社群
エピソード1・・・母とお父さんは同い年だと書いた。
方や山に入って木を切っている人。方や冷蔵庫の中に好物を探す人。
ちょっと母を1年ほど山に入れて,修業をさせようと思った。
エピソード2・・・久しぶりの山だったが,1回もコケなかった。
この私の絶妙なバランス感覚は,子供の頃の山遊びで培われたのかもしれない。
山よ,ありがとう!
エピソード3・・・最後の社の写真は,左から八幡社・牛頭天王宮・稲荷社であった。
東山道武蔵路は牛頭天王がたくさん祭られているので,これもその系列である。
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肥沼さんへ
タイムマシーンに乗って中世の秋津に行って遊んでいますね。
この城跡は発掘調査もされているようなので、今残っている土塁と堀の図面なども所沢市にはあるのじゃないかな?
肥沼さんは「内堀・外堀」と書かれたが、この程度の規模の城に堀が二重になっているとは思えません。通常は丘の南斜面に階段状の郭が造作され、台地である北側と西側に防御のための堀切を設置する。そして堀切の内側に防御のための土塁を築く。
これが中世、戦国時代までの城の構造です。
この城跡は「大堀山館」と呼ばれていたということは、西側と北側の堀が大規模なものであったことを示唆しています。
あと一つ気になったことだが、この城の城主についていろいろ取りざたされているが、この城の麓に住まわれているМさんが、最後の城主の子孫である可能性は高いと思います。
そもそも城は城主の私有地です。したがって戦国の世が終わって城主が武士を辞めて百姓になった場合には、その私有地を元に農業を営みます。
そして中世・戦国時代の城は、いざというときに逃げ込む詰めの城という性格であり、平時は麓に作られた館に住んでいた。地形を見るとМさんのお宅はまさにその館の位置。
この地域は戦国時代には小田原北条氏の領地だったから、城主もその家臣であったかと思います。北条氏滅亡後、その家臣の中の「村の武士」(=地侍という。一郷ぐらいしか持っていない武士)クラスの家臣の多くが帰農し、城跡を屋敷地にして百姓をしています。江戸時代の身分は名主です。
我が家の近く、武蔵国橘樹郡にも小田原北条氏の家臣団の城がたくさんありましたが、その中の拠点の城ではない、出城的な小規模な城の場合は、城主がそのまま帰農して村名主として江戸時代を過ごしています。
たとえば川崎市麻生区に「亀井城」と呼ばれる城があり、これは地侍である小嶋佐渡守が城主でした。そしてこの城の西側、間に鶴見川を挟んだ交通の要地に北条氏の拠点城である沢山城(三輪城)が置かれていました(町田市鶴川)。こちらは郭がいくつもある大規模なもので北条氏の一族が城代として治めていました。
小田原北条氏滅亡時に沢山城は敵の手によって焼かれて落城。以後そのまま廃城となりましたが。一方の亀井城も廃城となりましたが、城主小嶋佐渡守の子孫が帰農してそのまま麓の館を屋敷として麻生村の名主として江戸時代を過ごし、現在もここに住んでいます。
同様に高津区にあった作延城と、間をながれる平瀬川を挟んだその出城。
作延城は小田原北条氏の拠点城。出城は今は下作延神明社となっているところ。作延城は北条氏滅亡後廃城となり今は市営墓地となっていますが、この出城はそのまま城主の屋敷となり、江戸時代は名主としてすごし、現在でもそこに子孫が住んでいます。
以上の城についての考察は、
http://kawa-k.vis.ne.jp/chiikisi.htm
にある「亀井城の謎」シリーズに詳しく書いてあります(一部まだ未掲載ですが)。
一度Мさんにお尋ねになってはいかかでしょうか。
江戸時代の最初から住んでおられるのならば、確実に城主の子孫だと思います。
投稿: 川瀬 | 2018年10月 3日 (水) 12:22
追伸
https://blogs.yahoo.co.jp/lunatic_rosier/61385167.html
このサイトに図面が掲載されていました。
投稿: 川瀬 | 2018年10月 3日 (水) 12:30
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 堀が二重になっているとは思えません。
2つの土塁にはさまれた堀ですから,二重ではありませんね。
〉 一度Mさんにお尋ねになってはいかがでしょうか。
次回は,郷土研究会のOさんと行こうと思っているので,ぜひ質問してみます。
投稿: 肥さん | 2018年10月 4日 (木) 04:14