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2018年10月 7日 (日)

直木孝次郎さんのこと

たの社MLで歴史学者の直木孝次郎さんのことが出てきて,
検索したらウィキペディアに出ていたので,リンクしてみます。
1919年生まれで,現在99歳。まだご存命むでした!

直木孝次郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/直木孝次郎

【古田さんと直木さんとの関わり】

・ 季節 第12号 特集 古田古代史学の諸相 ●古田武彦巻頭連続対談
 直木孝次郎・佐々木高明・梅沢伊勢三・倉田卓次

・ 2010年11月 第7回古代史セミナー(大学セミナーハウスにて)平松健さんの記録による古田講演

「藤原宮

もう一つ申し上げたいテーマがあります。それは藤原宮の問題です。7世紀の後半にい わゆる藤原宮があったと公の歴史では決まったこととして描かれています。この問題に は非常におかしな所がある。端的に言わしていただくと古賀達也さんが提起された問題 ですが、あの藤原宮はオシッコをすると大極殿の方に入る。つまり大極殿のある場所が 低いのです。藤原宮の人は当然どこかでオシッコをします。それが大極殿の方に流れて 行きます。そこに大極殿と書いてあるものがあるわけです。それは実は鴨氏の宮殿のあ とです。宮殿跡を大極殿跡と呼び変えているわけです。(文責者注 飛鳥資料館の学芸 員の方の説明では、藤原京が短期間であったのはその理由によるとのこと。また大極殿 跡と称する現地には鴨公神社の碑がある)。 この点もおかしいのです。鴨氏というのは非常に古い氏族である。神武が入って来たと きに手助けしたのが鴨氏である。それが後には京都にも支部というか、上賀茂、下加茂 というがあり、八咫烏の子孫であると言います。古田史学の会長の水野さんも八咫烏の 子孫です。当然八咫烏というのは人間です。空飛ぶ烏のように錯覚して読まされている だけで、実体は八咫烏という人間です。神武が熊野を通って入って来るときに,その辺 を支配していた八咫烏、鴨氏の一族がこれに味方して,これをリードした,という話で す。だから、神武以後の天皇家に取っては鴨氏に足を向けて寝れない存在です。だから 藤原宮の場合も鴨氏の神殿を中心にあの宮殿が造営されています。 鎌倉の場合も,神殿(八幡様)を中心に都城ができました。天皇家も同じで天皇家にと って頭が上がらない鴨氏の神殿を中心に造営されている。鴨氏の神殿を中心に拡げたわ けですから、拡げた結果、地形的に神殿より高い位置になったのはやむを得ないわけで, オシッコをしたら大極殿へ流れることになるのです。 これに対して直木孝次郎さんが久しぶりに講演をして、「藤原宮を考える場合で困った ことがある。藤原宮の儀式に参列する豪族の邸宅がない」。これはおかしいと言うこと で、ご自分で悩んでこられたらしい。その謎が解けたとおっしゃるわけです。難波の方
は広いから豪族の邸宅が取れるが、藤原宮で儀式をやる場合は豪族たちが移動して、飛 鳥へ行って参列したのだろう。大発見をしたように話されたのを覚えています。直木さ んにすればそのアイデアで疑問が解けたとお感じになったのでしょうが、私から見れば 失礼ながらいただけないと感じました。難波から藤原までは遠いところを、たくさんの 行列をつれて何で行く必要がある。近所にいくらでも作れるのに、それを作らず,無理 して行くというのは口先だけの理論付けでしょう。 いずれの点から見てもあれば天皇家の宮殿だったという,教科書や学会や新聞の言うこ とは大嘘です。 平安宮になると大極殿がちゃんとできますが。藤原宮では大極殿になり得ないのです。 」

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コメント

先生とは「続日本紀研究会」で交流を持ったと思います。

あじすきさんへ
コメントありがとうございます。

そんな話を講演会の時に時々話されていましたね。
お互いがまだ若かった頃を懐かしむようでした。
その後進んだ道はまったく異なるものでしたが・・・。

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