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2018年10月20日 (土)

倭の五王と「東偏」の時期・「正方位」の時期

「東偏」の時期・「正方位」の時期に話題にしてみたい。

倭の五王

https://ja.wikipedia.org/wiki/倭の五王#年表

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倭の五王、外交年表

西暦    中国王朝    中国元号    倭王   用件

413年   東晋      義熙9      讃 ?  高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。                                 (『晋書』安帝紀、『太平御覧』)
421年   宋        永初2      讃   宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそらく「安東将軍
                               倭国王」。(『宋書』夷蛮伝)
425年   宋        元嘉2      讃    司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷伝)

430年   宋        元嘉7      讃?  1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)

438年   宋        元嘉15     珍    これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。
                               この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那
                               ・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の
                               任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)
                               4月、宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』文帝紀)
                               珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に
                               されんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝)

443年   宋       元嘉20      済    宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。
                               (『宋書』夷蛮伝)
451年   宋       元嘉28      済    宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
                               六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭                                伝)7月、「安東大将軍」に進号する。(『宋書』文帝紀)
                               また、上った23人も宋朝から将軍号・郡太守号を与えられる。
                               (『宋書』夷蛮伝)
460年   宋       大明4      済?   12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。

462年   宋       大明6      興     3月、宋・孝武帝、済の世子の興を「安東将軍倭国王」とする。                                 (『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
477年   宋       昇明1      興(武)  11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)

  これより先、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
  七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』夷蛮伝)

478年   宋       昇明2      武     上表して、自ら「開府儀同三司」[注 5]と称し、叙正を求める。
                               順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸                                軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)
                              (「武」と明記したもので初めて)
479年   南斉     建元1       武    南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」
                               (征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝)

502年   梁       天監1       武   (4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に
                               進号する(「ハリ梁書』武帝紀)[注 6]

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中国が南北に分かれるのが,439年。
南朝(宋、斉、梁、陳)が滅び,隋が中国を統一するのが,589年である。すると,

「東偏」政策・・・5世紀前半~6世紀半後半(約125年)・・・宋が栄えていた時期が中心(手本としていた訳だから)
「正方位」政策・・・6世紀前半~7世紀後半(約125年)・・・陳には使いを送っていないので(見限った?)
また,九州年号「継体」は,522年~
さらに,白村江の戦い以前から,大和王朝は「正方位」をスタートさせていたような状況から。

「東偏」の時期・「正方位」の時期の絞り込みの試みです。
アドバイスいただけたら幸いです。

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コメント

肥沼さんへ

 東偏時代を倭の五王の時代に限る理由はなんでしょうか。
 それよりもこの南北朝時代の前の、晋・魏(三国時代)・後漢の都も東偏だと思うので、後漢に倣って倭国はその宮殿を東偏にしたと考えられませんかね。
 福原長者原官衙遺構の放射性炭素測定結果の中に、AD80~240年という結果があった。
 ここに注目すればここはまさに、後漢と魏の時代であり、この宮殿遺構はまさに東偏だ。

 しかし次第に南朝が、倭国の朝鮮半島支配権を認めなくなった。
 だから倭国は南朝に朝貢しなくなり、独自の年号も持ち(つまり自分が天子だとし)、都も天子の都に相応しい正方位にしたのではないでしょうか。
 それはまさに中国北朝で北魏の力が強まり、南朝をも併呑しようとしていた時期だったのではないか。
 北魏の華北統一は439年。そして都を洛陽に移したのが493年。この北魏の洛陽がまさに正方位の都だ。
 ここに倭国の動きはここに対応しているのではないでしょうか。つまり隋による南北統一の100年前。

 ちなみに南北朝時代の始まりは北魏が華北を統一した439年だが、その前に晋が滅ぼされて王族が華南に移って東晋を建てた318年に事実上始まっています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  東偏時代を倭の五王の時代に限る理由はなんでしょうか。
 それよりもこの南北朝時代の前の、晋・魏(三国時代)・後漢の都も東偏だと思うので、
後漢に倣って倭国はその宮殿を東偏にしたと考えられませんかね。

私は「倭の五王で考えるとすれば」ということなので,もちろん時期を遡れればそれでいいと思います。
福原長者原遺跡がそうだとしたらそれでいい。すると,「卑弥呼も「東偏」の都を知っていた」という
テーマも出てくると思いますし,そのため~ということをした,という事実も出てくるかもしれません。
倭の五王は「最低限そこまでは言えるのではないか」ということで,限定しているわけではないのです。
「卑弥呼も「東偏」の宮殿を作っていた!」と書く日が近いことを願います。
須玖岡本遺跡の辺りは,「東偏」ということはないのだろうか?

肥沼さんへ

 「倭国の都や王墓は、朝貢していた中国の都の東偏に倣った」という肥沼仮説が正しければ、中国に倭国が使いを送ったことの確実な時代以後はみな東偏です。
 それは、
1:紀元後57年。後漢から「漢委奴国王」印を賜る。
2:紀元後107年。倭国王師升ら後漢に生口160人を献じる。
3:紀元後239年。邪馬壹国女王卑弥呼が魏に朝貢を求め、帯方郡太守は使者を魏都におくる。以後魏との通交は続く。

 紀元後1世紀から3世紀。倭国は後漢とそれに続く魏と通交しその都に使者を送っていた。後漢と魏の都洛陽が東偏の都であることはすでに確認した。
 福原長者原遺跡は東偏の宮殿。年代は南門の柱穴から出た炭化物のc14による年代AD80~240年を無視しないかぎり、1世紀から3世紀中頃だ。
 つまりこの遺跡は上の1~3の年代に倭国の都が東偏であったという肥沼仮説を証明する証拠だ。

 したがって「卑弥呼も東偏の宮殿を建てていた」は論理的な必然的な結論です。
 まだその遺構が見つかっていないだけ。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 したがって「卑弥呼も東偏の宮殿を建てていた」は論理的な必然的な結論です。
 まだその遺構が見つかっていないだけ。

「東偏」の論理は,私たちをとんでもないところへ導いてくれていますね。
古田さんが言っていた「論理の導くところ」へ,私たちもまいりましょう。

肥沼さんへ
>「東偏」の論理は,私たちをとんでもないところへ導いてくれていますね。
古田さんが言っていた「論理の導くところ」へ,私たちもまいりましょう。

 はい。行き着くところまで行くしかありませんね。
 まずは近畿地方・九州・関東を交互にやりながら古代寺院と官衙遺跡の全国悉皆調査を。そしてできたら時々並行して、中国の各王朝の王都の地図を確認し、各王朝の都の方位を確認しておきたい。
 唐・隋・北魏・南朝・魏後漢の都はわかった。これ以外の都の確認と、なぜ東偏だったのかをしっかり確認したいと思っています

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  まずは近畿地方・九州・関東を交互にやりながら古代寺院と官衙遺跡の全国悉皆調査を。そしてできたら時々並行して、中国の各王朝の王都の地図を確認し、各王朝の都の方位を確認しておきたい。
 唐・隋・北魏・南朝・魏後漢の都はわかった。これ以外の都の確認と、なぜ東偏だったのかをしっかり確認したいと思っています。

新たな情報を得て,飽きっぽい私も悉皆調査の意欲が湧いてきました。
どうぞよろしくお願いします。

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