前期難波宮と後期難波宮
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肥沼さんへ
こうして前期難波宮と後期難波宮の遺構を並べてみると、前期難波宮には大極殿がないことがよくわかります。
後期でみると、大極殿というのは内裏=天皇の普段の住まいとは別のもので、朝堂院=政治の中心の建物と一体のものであることがわかります。大極殿とは政治的な儀式の場ですからね。
一方前期をみると、大極殿と言われている建物は、内裏と一体です。
内裏前殿と回廊でつながれ、さらに南の朝堂院にあたる部分との間にも前殿がある。
これは大極殿ではなくて、大安殿ですね。宴会専用の建物。そしてその南の前殿は、天皇が群臣の前に出御する際につかう、政治的な儀式用の門です。
古田さんが「本当に前期難波宮に大極殿はあるのか」と何度も疑問を吐露されていたというが、この問いの中にこの宮殿の性格を規定する大事な視点が含まれていたのですね。大極殿だという説は、この遺構が天皇である孝徳の宮殿で、国・郡・里の律令制度を制定した場だとしたい人の強弁にすぎません。
>なにせ大阪も遺跡の多いところで,どこからやっていけばいいのか迷う。
迷う必要はありません。
大阪府の中のすべての官衙遺構とすべての寺院遺構を精査するのですから。リストに載っている順番にただひたすら精査するしかありません。選んでいてはかえって時間がかかります。
急がば回れです。
投稿: 川瀬 | 2018年10月15日 (月) 14:11
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 こうして前期難波宮と後期難波宮の遺構を並べてみると、
前期難波宮には大極殿がないことがよくわかります。
大極殿の有無で見ていくということですね。
〉 迷う必要はありません。
大阪府の中のすべての官衙遺構とすべての寺院遺構を精査するのですから。リストに載っている順番にただひたすら精査するしかありません。選んでいてはかえって時間がかかります。
急がば回れです。
それではやっていきますが,私は理解不能なものが多いので,
フォローをよろしくお願いいたします。
投稿: 肥さん | 2018年10月15日 (月) 16:27
肥沼さんへ
「難波宮下層」の図5・「遺構図(内裏周辺下層)」を見ると、
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102239-97348/up.jpg
軸の傾いた建物群が出てきています。 この図だけでは東偏・西偏を判断しにくい。
「遺構図(北西部)2」を見ると。
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102239-18089/up1.jpg
ここにも正方位の建物と重なって軸の傾いた建物群がある。
正方位建物が前期難波宮と後期難波宮時代のもので、この軸が傾いた建物群はその前の時代のものとのこと。
この建物群の「遺構変遷図」をみると、
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102239-18089/etc1.jpg
なんとこの西偏建物群は前期難波宮よりも古い時代のもの。5世紀末から7世紀中頃のもの。その中で、6世紀前半から後葉のものからは明確に西偏です。
これは前期難波宮も含めて近畿天皇家の物である証拠でしょう。
そして前期難波宮には大極殿がないという事実とともに、前期難波宮が九州王朝のものとの説を否定する資料です。
投稿: 川瀬 | 2018年10月16日 (火) 14:19
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 そして前期難波宮には大極殿がないという事実とともに、
前期難波宮が九州王朝のものとの説を否定する資料です。
なるほど.なるほど。
やはり方位は,歴史を解明する重要なカギとなりそうですね。
古賀さんはどうお答えになりますか・・・。
投稿: 肥さん | 2018年10月17日 (水) 04:34
肥沼さんへ
一つ質問するのを忘れていました。
>さらにずっと下った南方の街並みが「東偏」している感じがしないではないのですが,
このずっと下った南方の街並みって、何を見て言っているのでしょうか?
投稿: 川瀬 | 2018年10月17日 (水) 12:32
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 このずっと下った南方の街並みって、何を見て言っているのでしょうか?
グーグルの地図です。やはり.難波京の街並みも気になりますので。
投稿: 肥さん | 2018年10月18日 (木) 02:28
肥沼さんへ
> このずっと下った南方の街並みって、何を見て言っているのでしょうか?
グーグルの地図です。やはり.難波京の街並みも気になりますので。
これは現在の大阪の地図で街路が東偏になっていることですね。
この街路は江戸時代の大坂の街路の名残です。この時代であれば東偏であることは当然です。今の時代の地図を見たとき、その街路がいつの時代にできたものであるかということを頭に置いてください。
時代によって磁気偏角は移り変わります。
12世紀後半から18世紀後半まで、日本列島の磁気偏角は東偏です。
投稿: 川瀬 | 2018年10月18日 (木) 14:23
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 この街路は江戸時代の大坂の街路の名残です。この時代であれば東偏であることは当然です。今の時代の地図を見たとき、その街路がいつの時代にできたものであるかということを頭に置いてください。
時代によって磁気偏角は移り変わります。
12世紀後半から18世紀後半まで、日本列島の磁気偏角は東偏です。
江戸時代の街並みでしたか。
東偏に戻ることも失念していました。
お手数かけました。
投稿: 肥さん | 2018年10月18日 (木) 18:02