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2018年10月 4日 (木)

「たの社ML 2019」の自己紹介

肥沼(こえぬま)です。
4月から多元的古代史研究を主にやっています。

これまでも古田武彦氏に学んで「日本古代ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」
というのを発表していましたが,ここ数年の研究の進展で,九州王朝説にさらに確信を持つことができています。
その役割の一端を,仮説実験授業から学んだ私が担っているのがうれしいです。その例をいくつか書きます。

「「国分寺」はなかった!」・・・現在の国分寺は,九州王朝が各地に設置した国府・国府寺の流れを汲むものであり,
741年の聖武天皇の「国分寺建立の詔」には,「国分寺」という言葉は1回も出てこない。
「(これまである伽藍に加えて)七重塔を造れ」という命令である。国府も九州王朝が置いたものであり,
武蔵国府は街全体を「東偏」の形に作っている。(大國魂神社付近は,その後正方位に)
また,各地の旧式の国分寺(国府寺)や廃寺の多くも東偏の作り方をしている。
これらは多賀城・胆沢城・志波城も同様で,大和王朝の前に九州王朝が東北遠征をしていた証拠である。
では,なぜ九州王朝は東偏の街や寺院を作ったか・・・それは彼らが南朝の柵封体制の中にあり,
倭の五王(九州王朝の王)が使いを送った際,その都が東偏していたこと(その後,中国は正方位に転換。
日本でもそれを真似て,太宰府が正方位に都を作った)にある。

つまり,7世紀末まで九州王朝が日本列島の主権者であり,701年=大宝元年(大和作の初めての年号。
「続日本紀」に出ている)から大和王朝が主権を持つ時代が始まる・・・といった次第です。
古田氏が亡くなって数年しましたが,やっとここまで来ることができました。

歴史教科書はすぐには変わりません。それは日本の社会が天皇制を軸に回転しているからです。
場合によっては,自分の出世も左右されます。私にしても,通説で教科書を教えてきました。
(要所には,こんな研究をしている人たちがいて,自分は賛成の立場である,ということは明言しています)
しかし,やがて本当の歴史は明らかになってしまいます。その時,教えている(教えてきた)生徒たちに
恥ずかしくない自分でありたいです。なので,社会の科学の授業書の開発を進めながらも,
そんな研究が一方で進んでいることを心にとめておいてほしいと思います。
なにしろ,社会の科学MLは,他に類例のない,素晴らしい存在であると思いますから・・・。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

陸奥国府関係がわかりましたね。出羽国府の秋田城跡は、最近発掘が進んでいるらしいです。出羽は秋田城跡、秋田は久保田城跡で佐竹氏なんですね。

翔空さんへ
コメントありがとうございます。

〉 方位が「東偏」かどうかという視点が与えられると,
俄然遺跡に対する関心が深まりますよね。

肥沼さんへ

>武蔵国府は街全体を「東偏」の形に作っている。(大國魂神社付近は,その後正方位に)

 この記述は誤解を招きます。 「武蔵国府」が最初から東偏の街として作られたと受け取られます。
 東偏で作られた町は「武蔵国府」ではなく、「多摩評」と「多摩寺」を含むその周辺官衙群です。武蔵国府は新たに、「多摩評」とその官衙群が及んでいない地域に、「国府寺」僧尼寺とともに正方位で建設されました。そしてこれに伴って「多摩評」の政庁が正方位に作り直されたのだと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  この記述は誤解を招きます。 「武蔵国府」が最初から東偏の街として作られたと受け取られます。
 東偏で作られた町は「武蔵国府」ではなく、「多摩評」と「多摩寺」を含むその周辺官衙群です。武蔵国府は新たに、「多摩評」とその官衙群が及んでいない地域に、「国府寺」僧尼寺とともに正方位で建設されました。そしてこれに伴って「多摩評」の政庁が正方位に作り直されたのだと思います。

そうでした。そうでした。
いろいろなことを並行してやっているので,
頭が混線してしまったのですかね。

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