日本考古地磁気データベース
川瀬さんから以下のサイトを教えていただいた。
かなり細かいところまで,地磁気によってその時期が推定できるらしい。
http://mag.center.ous.ac.jp/
川瀬さんのコメント
「このサイトを訪問して、その前に上総国分寺の緯度経度をしらべておき、
それをデータとして入力してごらんなさい。これでこの場の磁気偏角永年変化グラフができる。
また同じく緯度経度を入れてこんどは年代を入れれば、その年の磁気偏角が出てくるよ。
この作業は一年ごとにできると思う」
(1) 上総国分寺・・・北緯35度・東経140度
(2) 上記の磁気偏角永年変化グラフ
(3) その年の磁気偏角(1131~1180年)
1131年・・・ 1.3 ×
1132年・・・ 1.4 ×
1133年・・・ 1.5 ×
1134年・・・ 1.7 ×
1135年・・・ 1.8 ×
1136年・・・ 1.9 ×
1137年・・・ 2.0 〇 --ーー
1138年・・・ 2.1 〇 ↑
1139年・・・ 2.2 〇
1140年・・・ 2.3 〇
1141年・・・ 2.4 〇
1142年・・・ 2.4 〇
1143年・・・ 2.5 〇
1144年・・・ 2.6 〇
1145年・・・ 2.7 〇
1146年・・・ 2.7 〇
1147年・・・ 2.8 〇
1148年・・・ 2.8 〇
1149年・・・ 2.9 〇
1150年・・・ 2.9 〇
1151年・・・ 2.9 〇
1152年・・・ 3.0 〇
1153年・・・ 3.0 〇
1154年・・・ 3.0 〇
1155年・・・ 3.0 〇
1156年・・・ 3.0 〇
1157年・・・ 3.0 〇
1158年・・・ 3.0 〇
1159年・・・ 3.0 〇
1160年・・・ 3.0 〇
1161年・・・ 2.9 〇
1162年・・・ 2.9 〇
1163年・・・ 2.9 〇
1164年・・・ 2.9 〇
1165年・・・ 2.8 〇
1166年・・・ 2.8 〇
1167年・・・ 2.7 〇
1168年・・・ 2.7 〇
1169年・・・ 2.6 〇
1170年・・・ 2.6 〇
1171年・・・ 2.5 〇
1172年・・・ 2.4 〇
1173年・・・ 2.3 〇
1174年・・・ 2.1 〇
1175年・・・ 2.1 〇
1176年・・・ 2.1 〇 ↓
1177年・・・ 2.0 〇 --ーー
1178年・・・ 1.9 ×
1179年・・・ 1.8 ×
1180年・・・ 1.7 ×
ということで,塔と金堂院の「西偏2~3度」に当てはまるのは,
1137~1177年の40年間ということでした。
こんなにも精度が高くなっているのですね。
「すごい!」というか,「こわい!」というか。(「こわい!」というのは,議論が細かくなりそうで・・・)
ちなみに私は,「日本の考古地磁気データベースと
過去2000年の地磁気永年変化」から目視で読み取って
「だいたい1100年代半ば」の予想でしたから,
「いい線いっていた」といった所でしょうか。(まるちゃんの手前味噌)
川瀬さん,すごいサイトの紹介をありがとうございます。m●m
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肥沼さん
ここで終わっちゃだめですよ。
11世紀。この時期は王朝国家が弱体化し、次第に地方の有力者(大名武士)が国々の政の実権を握り「介」「丞」などの国司の高官の称号を名乗った時代です。
西偏2・3度の時代の後半が、保元の乱・平治の乱、そして治承・寿永の乱の時代になりますね。平家物語の時代だ。
だから地方の有力者が廃れた国分寺を再建する。
これはありそうにも思えますが?
上総国分寺の伽藍配置をよく見てください。
金堂に取り付いて院を形成した回廊の中に塔がある。これってものすごく「古式」の伽藍配置ですよね。
11世紀に、こうした「古式」の7世紀の伽藍形式で作るだろうか?
ここ肥沼仮説の躓きの石です。考えてみてください。
投稿: 川瀬 | 2018年9月 5日 (水) 19:14
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 11世紀。
1137~1177年なので,12世紀ということでよろしいですか?
〉 11(12?)世紀に、こうした「古式」の7世紀の伽藍形式で作るだろうか?
うんうん。興味が湧いてきました。
投稿: 肥さん | 2018年9月 6日 (木) 00:08
肥沼さんへ
そうそう。12世紀ですね。間違えました。
やはり上総国分寺も、出土瓦の傾向と実態の把握が必要ですね。
武蔵国分寺の場合は西偏7度になるのは、西暦950年と1000年の間です。
950年が西偏12.7度で、1000年が西偏5.5度。980年代かな?。でも金堂院は築地塀の中に(つまり神域に)金堂・講堂・僧坊が入るというものすごい古式。
10世紀に6世紀から7世紀の形式の古式で寺院を作るか?
ただこの10世紀末という数字は、例の参道口遺跡の門柱を建てたときに土止めとして入れた土器の破片の数字と一致するので、金堂院建設と参道建設がほぼ同時なら、10世紀末でも可。
だが、ここは出てくる瓦に奈良平安時代の複弁蓮華文軒丸瓦がなくて、全部素弁蓮華文軒丸瓦だ。
平安時代の末に金堂院を作ったとすると、瓦まで7世紀の古式にして復元したとなる。こんなことがあるだろうか?
10世紀末以外に西偏7度に来るのは、西暦450年と500年の間なのでこれは早すぎて×。
では白村江の戦いの敗北後から701年の間(政治的可能性としては一番適当な時期で瓦でも素弁がぎりぎり可)となると、650年が西偏11.7度で700年が西偏9.8ど。そして750年だと再び西偏12.0 度となるのでここもだめ。
瓦と政治的状況を考えるとここがベストだということは、磁気偏角の復元値が間違っているという結論になります。
あの復元は元となった資料である窯跡が西日本に偏っているので東日本の精度は落ちるとありましたから。
でも今でも日本列島全体で西偏7度付近。
西日本が西偏10度付近である7世紀後半に東日本だけ西偏7度はありえない。そして西日本の西偏国分寺の多くは東大寺伽藍をモデルとした伽藍配置なので8世紀中ごろという時代判定はできるし、この時期の磁気偏角は10度ほど西偏なので遺跡実態とも合う。
となると西日本にしか古代磁気偏角の復元は使えないという結論。
つまりは窯跡などによる東日本の磁気偏角の復元そのものの精度が低いという結論に。これは傾向を表わしただけだと。
やはり結論としては、瓦編年をやり直していくことが一番の近道だと思います。
あとは軸の1・2度のぶれは建設時の「測定誤差」と判断し、上総国分寺の場合は計画変更して作った伽藍は「ほぼ正方位」と考えてみることでしょうか。
そのうえで出土瓦の傾向と編年の再検討でしょうね。
これなしには時代が特定できそうにもありません。
せっかく興味をもたれたところに水を差すようでスミマセン。
投稿: 川瀬 | 2018年9月 8日 (土) 23:35
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 せっかく興味をもたれたところに水を差すようでスミマセン。
いえいえ,磁気学の勉強にはなりましたのて。
やはり西日本ほど精度がないとなると,
一番優先するわけにはいきませんね。
投稿: 肥さん | 2018年9月 9日 (日) 01:10