「王賜」についての第6の選択肢
「稲荷台1号墳」の出土地である千葉県市原市の市原市教育委員会は,
以下のようなサイトを公開している。
https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/tenji28.htm
その中で,「王賜」銘鉄剣は,誰からもらったのかという問いの選択肢として,
次の5つをあげている。そして「1:畿内の大王」が多数派なのだそうだ。
1:畿内の大王
2:大王の一族
3:中央の豪族
4:地方の豪族
5:百済・新羅など朝鮮半島の国王
一元史観の日本歴史教科書を習っていると,
そして老後地域の歴史を学びに行くと,
たぶんそう教えてもらえる。
しかし,私たちの研究は多元史観のそれであり,
九州王朝の存在を証明しようとしているグループである。
しかも,最近は多元的「国分寺」研究を標榜し,
聖武天皇から国分寺が始まるのではない
(「国分寺建立の詔」には「国分寺」という言葉は一回も出て来なく,
七重塔を造れと言っているだけだ)とし,それ以前に九州王朝が各地に
すでに「国府寺」を造っており,それに「七重塔を付け加えよ」という意味である
として,各地の国分寺を「東偏5度」のルールで探しまくっている昨今である。
当然この地の国分寺である上総国分寺も検証しなければならぬ。
(従来上総国分寺はいろいろな中心線が考えられ,難解とされてきた)
しかし,「東偏5度」はここでも私たちに解明の糸口を与えてくれそうである。
以上の条件が加わったとしたら,
古田さんがおそらく「九州王朝の天子」からの下賜を考えた時より,
事態は前進しているのではないか。
私たちは,勇気を持って,根拠を持って「6:九州王朝の天子」を付け加えたいと思う。
(1) 基本的に4~12世紀は西偏の時代であった
(2) 倭の五王は九州王朝の天子であった(倭の五王が大和王朝なら,
近畿地方に「東偏5度」の建物がたくさんあるはずだが,それはない)
(3) 九州王朝は中国南朝に倣い,「東偏5度」の寺院や街作りに励んだ
(4) 上総国分寺の研究から,ここも「東偏5度」の寺院が作られようとしていた
「王賜」銘鉄剣をもらった稲荷台1号墳の主は,(2)の時期にこの地を治め.
九州王朝の政治に協力した功績で,ほうびを与えられたのではないか。
鉄剣は黙して語らない。それに語らせるのが私たちの仕事である。
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『「王賜」銘鉄剣概報』の写真
上記の本に付いている鉄剣の実物大の写真(70cmほど)
※ 一方,1350年前の7世紀中ごろには,府中熊野神社古墳の主人が,
銀象嵌の「鞘尻金具」のついた剣?を(大和王権から?)もらっている。
その古墳の方位が武蔵国分寺の金堂以下の主要建物群と同じ「西偏7度」なのだ。
そして,私たちが将来の発掘に期待するのは,塔を中心とした正方位の創建・むさし国府寺だ。
「むさし」のところには武蔵ではなく,それ以前のこの地域の呼び名「无射志」が入っていたと思われる。
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