岡本宮以降の宮殿は,正方位だった!?
本日,武澤秀一著『建築から見た日本古代史』(ちくま新書)を買った。
もっと早く買っておけば良かったかもしれない。
それは,方位をかなり意識して研究している方だったからだ。
(正方位の世界観について書いてある。
ただし,九州王朝の東偏については出て来ないと思う。
古田武彦氏の著作も参考文献には一冊もない)
ということで,新情報。
その本のP291に,「正方位の王宮」という小見出しで,以下のような文章が続きます。
「最初に建てられた岡本宮(630~636年焼失)は建物の向きが西に約二〇度傾いていたと認められます。
・・・ところが,その後に造営された板ぶきの宮(643~655年冬)では
土地を平らにならしたとみられ,建物群は南北を基軸とする正方位にのっていました。
焼失した板ぶきの宮の跡地には後岡本宮(656年~)が,これも正方位で建てられました
(林部『飛鳥の宮と藤原京』)。これが,旧宮となったわけです。
また,振り返れば,“板ぶきの宮の変”をへて造営された難波宮も正方位にのっていました。(第Ⅱ部)。」
ということで,635~643年の間に,西偏→正方位の動きが絞られてくるかもしれませんね。
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肥沼さんへ
この本は私も注目していました。まだ買ってないけど。
なるほど、
岡本宮(630~636年焼失)は建物の向きが西に約二〇度傾いていた
板ぶきの宮(643~655年冬)では土地を平らにならしたとみられ,建物群は南北を基軸とする正方位
焼失した板ぶきの宮の跡地には後岡本宮(656年~)が,これも正方位
近畿天皇家が宮殿を西偏から正方位に変えたのが、636年から643年。
たしかに寺院で言うと、久しぶりに寺院に正方位が出てきたのが、
●山田寺 奈良県桜井市山田 存続時期 641年~ ほぼ正方位 西偏1分
これは何を意味しているのでしょうかね。
山田寺は孝徳朝で中大兄派として彼を支えた右大臣蘇我倉山田麻呂の氏寺です。
彼は皇極天皇4年(645年)の乙巳の変(この本の著者が“板ぶきの宮の変”と述べている事件)の立役者ですが、謀反を企てていると讒訴され、孝徳の派遣した軍に囲まれて山田寺で自害した。書紀はこの事件の背景を何も語っていませんが、この直後ですね、中大兄が孝徳と袂をわかって、日本(九州)の難波の宮を離れ大和(倭)に戻ってしまったのは。私は背景には、唐との対立に踏み込んでいく九州王朝を支持する孝徳と、独自路線をとろうとする中大兄の対立だと読んでいますが。
この時期に近畿天皇家が自らの宮殿を九州王朝と同じく正方位に変えた。
これって九州王朝からの独自路線の表明でしょうか?
それとも本家九州王朝に従うという意思表明なのでしょうか?
それとも本家に取って代わろうという意思表明なのでしょうか?
なかなか興味深いですね。
奈良文化財研究所のデータベースの飛鳥京跡の中の図4内郭南半遺構図にまさに西偏の遺構が出ています。
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m120631-85033/naikaku-minami.jpg
投稿: 川瀬 | 2018年9月25日 (火) 23:28
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 なかなか興味深いですね。
本当に「歴史と方位」は,一大研究課題でした。
「飛鳥京跡の中の図4内郭南半遺構図にまさに西偏の遺構」を
アップさせていただきました。
投稿: 肥さん | 2018年9月26日 (水) 03:12