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2018年9月20日 (木)

『太宰府は日本の首都だった』への書評

「太宰府 C14」で検索していたら,以下のブログに出会いました。
水城の測定値=都府楼の測定値というのが?ですが,
参考までに転載しておきます。

矢津陌生ブログ

http://yazumichio.blog.fc2.com/blog-entry-528.html?sp

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矢津陌生ブログ


太宰府は日本の首都だった 内倉 武久/著
書籍
2013/09/0121:38 0 0

この著では、水城の成立年代を調べるために行なわれた三層の敷粗朶の放射性同位体(C14)によると、240年、430年、660年が検出されており、「日本書紀」に符合する660年だけが公表されていること、何故なのかを語る。著者は古田武彦氏の「九州王朝説」を評価しておられる。九州倭(い)政権の首都の遺構である(い‐倭を「わ」ではなく南朝音の「い」と読むべきだと著者は主張する‐もう少し確かな検証をあげられた方がいいと思う)。考古学界や福岡県教委などは、地元の人が「とふろう」と呼ぶ「だざいふ」の遺跡を「大宰府政庁遺跡」と呼んでいる。「政庁」とは八世紀以降、近畿和(わ)政権が九州に置いた地方官庁を指す言葉である。考古学会と国史学会は「日本書紀」の記述と遺跡の誤った年代推定からこのような呼称を使う。

「だざいふ」には「太宰府」と「大宰府」の二通りの書き方があるが、「太」と「大」では全く意味が異なると説く。「太」は唯一無二の意味を持ち、「大」はただの大きい。その違いは、「太宰府」であれば政治の中心、「大宰府」であれば政治の代理機関と大きな違いがある。

発掘の結果「だざいふ」の遺跡は、北側に天皇あるいは天子が居住し政務をとる大極殿区画、その南側に官僚たちが勤務する朝堂院区画、さらにその南側に四角に区画された条坊地域が広がっている。大阪の第一次難波京や奈良の藤原京に先行する日本列島最古の中国風都城である。正確には付近の地名をとって「都府楼(とふろう)遺跡」と呼ぶべきであろう。

首都の防御施設である水城や外交施設である鴻臚館は都城とほぼ同時に造られたとされているが、放射性炭素(C14)による年代測定では四三〇年前後という測定値が相次いでいて、「政庁遺跡」と見誤られている都城遺構は五世紀中ごろ、中国史書に記す日本のいわゆる「倭の五王:讃、珍、済、興、武」時代に建設されたとされる。遺跡は弥生時代後期から古墳時代の初期に始まる遺跡であるのに、考古学会の立場は、日本の政権は近畿にあったとする観点に基づいての年代判定を採用、世界の考古学で使われている放射性炭素による理化学的な年代判定は用いられていない。

「都府楼(とふろう)」の遺構は、240年、430年、660年と三時期にわたっていることがわかっている。掘立柱を使った遺構が主であるが、「観世音寺」や「大極殿」など礎石を使った建物が多い。遺跡には「大裏(だいり)=大内」「シシンデン=紫宸殿」などがあることは注目される。「日本書紀」は大和朝廷の立場から記述されている歴史であることは、多くの人が指摘しているので、大和朝廷成立以前の歴史を真摯な態度で解明すべきだと言う立場である。

著者はこのほか、古田武彦氏が唱える「九州年号」、万葉集等に出ている「太宰府」を「遠の朝廷」ということ、九州の古墳文化と関東における古墳との係わり、九州を中心に西日本に多い山城(神籠石:こうごういし)などしっかり究明するべきものがたくさんあると説く。福岡県教育委員会なども大和朝廷が唯一であるとの立場をとる。どうやら日本国は大和朝廷の歴史書千三百年続く「日本書紀」の呪縛から逃れることは本当に難しいようだ。

※ 最近買った河村日下さんの『「邪馬台国」論争は終わった』(ミネルヴァ書房)で,
卑弥呼の居場所を太宰府だとしたのは,240年という年代が卑弥呼の時代だから?(肥沼)

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コメント

肥沼さんへ

 なるほど。太宰府遺構そのものの出土物の放射性炭素による年代測定はないのですね(もしくは隠している?)。
 分るのは水城と鴻臚館か。
 水城の「三層の敷粗朶の放射性同位体(C14)によると、240年、430年、660年」ということは、三期にわたって構築拡大されたと素直に理解すべきですね。
 「鴻臚館は都城とほぼ同時に造られたとされているが、放射性炭素(C14)による年代測定では四三〇年前後という測定値が相次いでいて」。鴻臚館は5世紀の所産で間違いないようですね。
 両者に共通する「430年」という年代。興味深いです。
 太宰府遺構に関する放射性炭素年代測定がされているのかいないのか。一度報告書を精査してみる必要がありますね。

 そして初期230年の水城が守ろうとしたものが太宰府ではないとしたら。
 なるほど、卑弥呼の居所が博多湾岸ではないという推定は可能ですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

『太宰府は日本の首都だった』の73ページに,こういう記述があります。

「太宰府遺跡の発掘を担当している九州歴史博物館(福岡県立,太宰府市石坂)や
太宰府市教育委員会によると,1968年から続けられた発掘調査で,
遺跡の地下遺構は大きく分けて三層になっているいることがわかったという。
三層の遺構は下から(古い順に),
◇七世紀後半の飛鳥時代
◇その上が奈良時代
◇最上層が平安時代の遺構
だそうだ。」

私は太宰府も当然水城や鴻臚館と同じくC14の測定がされていると思うのですが,
あまりにもそれが日本書紀の記述と違うので,発表できないのではないかと思います。
つまり「日本書紀はウソを書いている」ということになり,
一元史観では日本の歴史は解釈できないことになるからです。

肥沼さんへ

>私は太宰府も当然水城や鴻臚館と同じくC14の測定がされていると思うのですが,
あまりにもそれが日本書紀の記述と違うので,発表できないのではないかと思います。

 この推測が正しいのか否か。ここを確かめるために太宰府の遺跡についての報告書の悉皆調査が必要ですね。

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