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2018年9月16日 (日)

東九州自動車道関係埋蔵文化財調査報告13

川瀬さんが,例の福原長者原官衙遺跡の調査報告があることを
教えて下さいました。
関心のある方もいらっしゃると思いますので,リンクしておきますね。

東九州自動車道関係埋蔵文化財調査報告13
http://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/114748_17946934_misc.pdf

最後の方に,「要約」というのがある。

「福原長者原遺跡第3次調査で確認された官衙政庁跡は8世紀前半を中心とした時期に存在し、
3期にわた る変遷が認められる。検出遺構は脇殿に相当する大型掘立柱建物跡、南門跡(八脚門)、
東門跡(四脚 門)、囲繞施設である大溝や回廊状遺構、柵もしくは掘立柱塀である。」とだけ書いてあった。

この遺跡の「性格」については,「分析不能」ということなのだろうか。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 遺跡の年代について。
 遺物が8世紀前半のものということは、8世紀前半にはこの遺構は廃絶したということを意味しています。
 そして科学分析の中の木片などからはこれよりもかなり古いものが出ています。
 ここにこの遺構が作られた時代のヒントがあると思います。
 考古学の方法では、建物などが作られた時期を特定するのはとても困難で、廃絶された時期を特定するのがせいぜいのところ、ということを頭において報告書を読んでください。
 これ。報告者も含めて忘れていることです。

 あと時代を特定するには、
 掘立柱の建物であること。
 瓦は葺かれていなかったこと。
 大溝と回廊で囲まれた遺構であることから、政庁もしくはそれ以上のもの。

 と考えると、規模からしても太宰府政庁に匹敵し、その一期よりも古いものと判断するのが適当だと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 と考えると、規模からしても太宰府政庁に匹敵し、
その一期よりも古いものと判断するのが適当だと思います。

ということは,太宰府が600年頃としたら,
この遺跡は500年代の可能性もあるということでしょうか。

肥沼さんへ

>ということは,太宰府が600年頃としたら,
この遺跡は500年代の可能性もあるということでしょうか。

 はい。その通りです。その可能性もあります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 はい。その通りです。その可能性もあります。

ということは,倭の五王の武が中国に遣いを送ったのが478年らしいですから,
その年代に近づきますね。

肥沼さんへ

 前のコメントでうっかり「はい。その通りです」と答えてしまいました。
 福原長者原遺跡は太宰府一期より前だとは思います。その理由は、
 
 一期政庁は二期の礎石建物で中国都城に倣ったものと区域の規模はほぼ同じようですが、その内部の建物の配置は(全貌が明らかではないですが)。東西棟の正殿らしき大型建物は出現していますが、その目の前に南北棟の大型建物がありますので、まだ中国の朝堂院様式ではない。
 福原長者原は、見事な堀と柵で囲まれた方形区画の中に、日本の伝統的な宮殿の形である、正殿・脇殿をコの字型に並べて間に儀式を行うであろう中庭があります。だから伝統的な倭国の宮殿。
 しかし一期政庁は南北正方位なので、中国の隋の都城設計思想の一部を取り入れている。
 福原長者原は東偏3~5度なので、中国の隋ではなくまだ南朝の設計思想。
 ということで福原長者原は太宰府一期政庁より前と判断。
 でもその太宰府一期政庁の時期が問題です。

 肥沼さんが太宰府一期政庁を600年頃とされたのは、どんな根拠があるのでしょうか。
 通説では一期は7世紀末です。これを100年近くさかのぼらせる根拠は?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  肥沼さんが太宰府一期政庁を600年頃とされたのは、どんな根拠があるのでしょうか。
 通説では一期は7世紀末です。これを100年近くさかのぼらせる根拠は?

放射性炭素の測定では,従来の編年より九州はかなり古い年代を示しています。
内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房)の数値では数百年前のものもあるようですが,私は遠慮して「100年」と考え,「600年頃かな」と。
±数十年ということなら,九州年号「倭京」の618年ですね。

あと,前に「「国分寺」はなかった!」の話題の時に,
『聖徳太子伝記』に見える,告貴元年(594)の年に
「66国の国府寺建立」記事がありました。
この記事を九州王朝の多利思北孤のものだとすると,
東偏5度で建てられている古いタイプの「国分寺」と,
同じく東偏5度で建てられているこの長者原遺跡は,
ほとんど同じ時代に建てられているのではないでしょうか。
そこで,いよいよ500年代に入れるのかな,と考えました。

肥沼さんへ

>放射性炭素の測定では,従来の編年より九州はかなり古い年代を示しています。
内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房)の数値では数百年前のものもあるようですが,私は遠慮して「100年」と考え,「600年頃かな」と。
±数十年ということなら,九州年号「倭京」の618年ですね。

 なるほど。遺跡に残存していた木材の放射性炭素測定ですか。数百年前の数値もでてくる。そりゃそうですね。木製品の中には、代々使われたものもあるでしょうし、建物だって古材を再利用することもありますからね。
 先に示した福原長者原遺跡の報告書の科学鑑定の中の放射性炭素測定の中にも数百年前のものがありました。報告書は(放射性炭素測定結果は)概ね8世紀初にあてはまる、とまとめに書いていましたが、よくデータをみればそんなことはありません。
 放射性炭素測定という一切の先入観が入らないデータをもとに太宰府一期政庁の年代を考えようという姿勢は、科学的でとても良いと思います。

>±数十年ということなら,九州年号「倭京」の618年ですね。
 わたしはこの年代に相当するのが政庁Ⅱ期だと考えています。
 したがって政庁一期が600年ごろ、いやそれより遡れると考える肥沼さんの考えは私も支持します。ですから500年代の末かと。
 
>ということは,倭の五王の武が中国に遣いを送ったのが478年らしいですから,
その年代に近づきますね。

 でも400年代までは遡らないと思います。福原長者原遺跡は。
 どんなに遡っても、筑紫君磐井の時代までは遡らないでしょうね。530年代。
 当面は500年代末と考えておきましょう。

 ここでもきっと放射線炭素測定に基づいて、土師器や須恵器の編年も再検討しなければならなくなると思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  でも400年代までは遡らないと思います。福原長者原遺跡は。
 どんなに遡っても、筑紫君磐井の時代までは遡らないでしょうね。530年代。
 当面は500年代末と考えておきましょう。

はい,わかりました。
私も「500年代末」を頭に入れておきます。

肥沼さんへ

 一つ質問を忘れました。
>内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房)の数値では数百年前のものもあるようですが

 ここで示された放射性炭素測定のデータを教えてください。
 遺跡の
    どこで採取した、
    採取したものの種類
    測定データ
 をご教示ください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

けっこう件数がありますが,
画像でお届けします。

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