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2018年9月 3日 (月)

「おもいこみ」という補助線

「おもいこみ」という言葉があって,
これまで数えきれないくらいマイナスの表現で言われてきたのだが,
私はプロの学者ではないので,
「おもいこみ」という一種の「補助線」を入れて考えることが多い。

プロの研究者は,論理的な飛躍を警戒すると思うので,
A → B → C → D → E
というように,段階を踏みながら,飛躍のないように論証していきたいのだと思う。
しかし,私には学問的な積み上げはなく,毎日数時間文献を読み込む根性もなく,
体力的に自信があるわけでもなく,不屈の精神力に恵まれている訳でももちろんない。

なので,私の場合は古田史学関係の本のみだが若干の読書と,
古田武彦氏の講演会や研究会や旅行で身に着けた臨場感と,
ふらふらすることが好きなので気の向いた方面へ手ぶらで向かう
一見無駄に見えるようなフィールドワークと,
一応36年間仮説実験授業をし続けげてきた教育現場での対人間感覚と,
無知ゆえに「なぜ金堂以下の主要建物だけが7度西偏しているの?」とか
「国分寺建立の詔には国分寺という単語が1回も出て来ないよ」
などと常識のある人が恥ずかしくて言えないことを言ってしまう
遠慮のなさを武器にしてやって行くしかないのが現状である。
なので,AからEまでがきちんと並んで結論を出せることはこれまてにもなく,
川瀬さんその他の方に助けていただいて,
「そうなんですよ。それが言いたかったんです」とオチがつくこがしばしばである。

それ以上でもなく,それ以下でもない,「おもいこみ」という一種の補助線をたよりに
これからも古代史研究を進めていきたい。
A → (たぶんB) → C → (Dだといいなあ)→ E(古田史学としてはこうこなくっちゃね)
などという,かなり杜撰な部分もありますが,大目に見てやって,
たまに飛び出すヒットやまぐれのホームランにご期待下さい。

※ 私はたとえデッドボールででも出塁する覚悟で,
古代史研究のバッターボックスに立ちたいです。
(もうすでに,だいぶデッドボールはいただいていますが・・・)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 論理的な実証だけでは学問はできません。
 直観という一見論理を越えた「おもいつき」が論証を飛躍させて、思いもよらない地平に研究を進めるものだと思います。
 肥沼さんの飛躍は「おもいこみ」ではなくて「おもいつき」だと思います。
 武蔵国分寺が真北と西偏7度という二つの設計思想で成り立っていること。この事実を見たときに「建設主体も建設時期も違うのじゃないか?」と「おもいついた」ことが多元的国分寺研究の初めとなった。
 「国分寺建立の詔」が実は「すでに存在する僧寺に七重塔をつくれ」との詔だと気が付いたのは、この聖武の詔は国分寺建立命令だとの「おもいこみ」で研究を進めるのではなく、一応はじまりを確認しておこうという「おもいつき」から始まった。
 「おもいつき」ではなく「おもいこみ」から始まったのが一つある。
 府中市街が西偏7度・正方位・東偏5度の三つの町でできていることを遺跡地図で気が付いたとき、直観的に「東偏5度は九州王朝」だと「おもいこんだ」。
 山田さんからは「東国王朝を考慮すべきでは」と注意され、私からは「真北を九州王朝と判断したことに反する」と注意されてもなお、肥沼さんは「東偏5度は九州王朝」だと「おもいこんだ」まま突っ走った。
 この時実はわたしも東偏5度も九州王朝ではないかと考えてはいた。
 つまり九州王朝は、最初は「東偏5度」でつくり⇒何かのきっかけで「正方位」に変えたと考えたわけだ。
 何かのきっかけとは、おそらく西戎の隋が天子を名乗って都を正方位で作り始めたことに対抗するということと予想はした。
 だから正方位の街路の前に東偏5度の街路があることは説明がつく。
 しかしなぜ最初は東偏5度なのかが説明つかないのだ。

 ここで肥沼さんの「おもいつき」がさく裂した。
 「九州王朝は南朝に従ってきたのだから南朝の都に従ったのではないか」と「おもいついて」、一気に南朝の都建康の跡地である南京へと調査を進めた。
 そして幸運なことに現在の南京市街も東偏していた。
 これを肥沼さんは「破壊された南朝の東偏市街の名残だ」と判断してさらに調査を進め、最新の考古学的発掘に基づいた「六朝建康城の研究ー発掘と復元」という中国人研究者の論文の日本語訳にたどり着いた。
 そして南朝の建康城が東偏25度だという事実を確認し、九州王朝の作った寺院や街路が東偏となった「ひな形」がここにあるという「びっくり・トンデモ」の結論を見つけ出した。
 ただここにはなぜ建康城が東偏となったかは論証されていない。
 あとからわかったあとでこの論文を読むと、この論文の著者も建康城の南北軸が東に大きく傾いていることは気にしていて「三、建康城の傾斜について」という一項を設けて論じ、都の「四至」の設定からで、西にある大河の向きが原因だと結論づけていた。

 このあと肥沼さんはまた「おもいついて」、隋唐や秦漢の都の傾きも確認しておこうとしてまず長安城を確認し、多くの都が正方位であることを確認した(このとき秦の咸陽城が東偏と確認したが、ここには注目しなかった)。
 この確認に私がコメントし「洛陽は?」と聞いたので肥沼さんは早速洛陽に飛んで現在の洛陽地図を見て、そこに「老区」という西偏の水路と城壁に囲まれていると思われる古代都城の跡と思われるところを見つけて、洛陽は西偏?と結論された。
 そしてここにとどまらずに、洛陽周辺の古代の洛陽城の遺跡を探そうとして、隋唐洛陽城・漢魏洛陽城、さらにその東方の周代の都城の跡を示した地図を見つけたがここで探索の道はとまった。
 きっと現代洛陽が西偏だったからだと思う?どうして?と。

 私の探索はここから始まった。
 肥沼さんが見つけた洛陽周辺の古代都城図に私もであった。
 この図には方位が書いてないのだが、隋唐の洛陽城が正方位であることを知っていた私には、その東の漢魏洛陽城が見事な東偏であることに気が付いた。そして画面上で角度を測るとなんと東偏5度。
 そして漢魏の洛陽城とは、倭の王が漢・魏に遣使して「倭国王」の称号と金印をもらった場所であることに気が付いたので、この遺跡こそ、九州王朝の東偏都城の起源と考えたわけだ。
 あとはひたすら「漢魏洛陽城」のキーワードと「漢魏洛陽城遺跡」のキーワードを駆使して検索。その中で多くの学者が隋唐洛陽城・隋唐長安城の起源として、この「漢魏洛陽城」に注目していることに多くの学術論文を読む中で気が付き、都城設計思想について論じた論文を次々と読んでいった。
 そうやってたどり着いたのが、佐川氏の「中国中古の都城設計と天の祭祀」であった。
 この論文は従来の論者と違い「天の祭祀」をキーワードとしして都城設計思想の変遷を遺跡と文献記録に基づいて考察した画期的なものだったのだ。

 私は論理を追って推理していくが、漢魏洛陽城が東偏だと気が付かなければ、今の結論には到達できなかったわけだ。
 そしてその基礎には、肥沼さんの「おもいこみ」と「おもいつき」があった。

 さらに肥沼さんが証拠として書かれたが、中国都城の歴史的変遷を追ってみるという方向そのものは正しかったのだ。

 こえぬまさんの「おもいこみ」が研究の足かせにはならず、新たな飛躍の基礎になれたのは、逆説的だが、肥沼さんがあまり歴史の智識がないという条件が横たわっていると思う。そして自分が物知りではないという自覚があるので、あまり自分の「おもいこみ」に拘らず、人の批判や意見に耳を傾ける姿勢を持っている。これが新たな飛躍を生む。
 そしてこの逆にせっかく「おもいつき」で新たな発見があっても、それを論証し深めて証明することに至らないのもまた、歴史の知識不足が原因。
 ここが肥沼さんが古代史を研究するときの課題ですね。

肥さんへ
講演おつかれさまでした。

>A → (たぶんB) → C → (Dだといいなあ)→ E(古田史学としてはこうこなくっちゃね)

古田史学という大前提を置く限り、AやCという事象(事実)を見出した時、
 「E(古田史学としてはこうこなくっちゃね)」と予想を立てて考えるのは、
学問的に正しいと思います(数学にだって例えば「リーマン予想」というのがあります)。

考古学の話ではないけれど、「物は語らない。物に語らせるのが考古学。」です(史書に合わせるのは、横着者の「えせ考古学」)。


史書や遺跡は語らない。史書や遺跡に語らせるのが歴史学です。
(史書編者の騙りをそのまま語る「一元史観」は「えせ歴史学」です。)

多くの新発見や新学説は、事実をたどって行き着いたのではなく、ひらめき的予想によってたどり着いたのです。ひらめきや思いつきは、「科学」にとってとても大切なものです。新学説は先人の業績を踏まえてはいますが、全て個人の頭脳におきた思いつきやひらめきから構築されたものです(ただ、「思いつき」を事実であるかに言うと「妄想」です)。

仮説を組み立てるには、今回肥さんが行ったような、それを裏付けるようなフィールドワークを含んだ調査が大事ですね。お疲れさまでした。

やがて、「たぶんB」が「B」になり、「Dだといいなあ」が「たぶんD」になってさらに「D」となれば、仮説の成立です。そうなった場合、肥さんの思いつきがなければそうならなかったのは間違いないことです。

人類が月に行くことができたのは何故か?
科学技術の進歩があったことは確かな前提ですが、
「月に行こう」と決意した人がいて、くじけずにやりとげる人がいたからです。

肥さんは堂々と思いつきを語ってください(思いつき「も」ですね)。
その思いつきからヒントをもらう人もいるのです(それは私です)。


これからも、「思いつき」を宜しくお願いいたします。

肥さんへ
大事なことを書き忘れました。

肥さんの「思い込み」というのは「古田史学ならこう考える」というものですね。
それは私も思い込んでいます。その「思い込み」は大前提です。
私はそれをいつも「補助線」(導きの糸)としてものを考えています。

それを「思い込みにすぎない」といわれても、それは「史観」の違いなのです(「一元史観」と「多元史観」)。どちらが真実の歴史を語っているかで決着がつくだけのことです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私の良いところと足りない所を言い当てていただいたと思っています。
私も「勉強しよう」とは思っているのですが,
仮説実験授業に出会ってしまったこともあって,
「楽しくない」と思ってしまうと,そこでストップしてしまう,
という欠点を持っているとは思っています。

なので,川瀬さんに助けていただきつつやっていくのが,
多元的「国府」研究&多元的「国分寺」研究にとって
今のところ一番収穫が多いのではと思っています。

私の生きている間に,自分が住んでいる当地の
「武蔵国府」「武蔵国分寺」をなんとか理解できるようにしたい。
もしそれをもとに,日本列島の歴史を明らかにできるのなら望外の喜びですが,
最低限その先鞭は付けたい。

川瀬さんには,ご自分のやりたい研究のある中,
時間のかかる私のためにいつもありがとうございます。
また,明後日よろしくお願いいたします。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

山田さんは,私の思い付きや思い込みの「第一理解者」だといつも思っています。
魅力的な思い付きや思い込みは,それだけで価値があるのですよね。
だから,思い付いたら,思い込んだら,ブログで発表する,してしまう。
そして,叩かれたり,励まされたりしながら,それを独自ルートで検証していく。
あるいは,他の人の助けを借りてゴールを目指す。

幸か不幸か,私は諦めの良い方なのです。
だから,叩かれるとすぐ「やっぱりだめかなあ」とあきらめてしまう。
今回ももう少しでそうなりそうでしたが,川瀬さんに最後を助けていただきました。
そして,川瀬さんにいろいろ批判を受けても,山田さんもご自身のサイトで,
「肥さん,頑張れ!」と名前は出さずとも応援していただけていると信じ,
これからも思い付き&思い込みを大切にしていきたいです。
今後ともよろしくお願いいたします。

肥沼さんへ

 歴史研究は楽しいものです。想いもつかなかった「新発見」をした時の楽しさは、たとえようもありません。これはすでにいくつもの「新発見」をされた肥沼さんにはお分かりだと思います。
 でも楽しいことだけではありません。
 たとえば今やっておられる、「国分寺」伽藍の伽藍中軸線の実態調査。図面の方位が磁北なのか真北なのか。わからないものもあり、これを確かめるのは大変な作業。途中で面白くなくて投げ出したくなる。
 でもここで投げ出すと、後で来るはずの「新発見」にも出会えず、その楽しさを感じることもできません。
 また今同時に進めている府中市街の東偏建物群の年代判定。これをするには東偏の掘立柱建物が竪穴住居を壊して建っている現場を見つけて、壊された竪穴住居からどのような土器が出ていてその年代はいつと判定できるのか。このような例を多数摘出しなければいけません。これは武蔵国府の発掘調査報告書を多数見て見つけるしかないわけ。これもしんどい、途中で投げ出したくなる作業ですが、これを放棄してはその先の「発見」、東偏建物群が700年以前のもので九州王朝時代だという「発見」にたどり着くことはありません。
 証拠を見つけ論証を完成する作業はかなりしんどい。
 さらに先行論文を読み込むのもかなりしんどい。

 でもこれを通過し乗り越えないと「発見」という楽しさはないわけです。

 そしてもう一つやっかいなのが、他者からの批判です。
 批判なら良いのですが、「非難」や「罵倒」が来るかもしれません。肥沼さんが今付き合っている歴史の仲間は「古田学派」ですから「非難」「罵倒」はないかもしれませんが。僕がやっている近代史の分野だと一杯来ます。理解して応援してくれる人もいますが、あなたの研究は「英学史」の分野外だ。他の学会に行けといわれたり、これを理由に学会誌への論文掲載を断られたこともあります。「医史学」の分野の論文も、先輩を批判するような論文は掲載できないと、掲載を断られました。査読者二名のうちの一名がこの立場なので、掲載できませんでした。
 こうした「いじめ」にも会うのです。

 歴史研究は楽しいものだという「おもいこみ」は捨てた方が良いです。
 楽しいというのは「古代史ファン」のレベルに留まっている限りでのこと。研究するレベルに入ると、しんどいこと、苦しいこと、投げ出したくなることはたくさんあります。
 これに耐えられるのは「発見」の喜びを知った人だけです。

 あきらめずに努力していきましょう。
 明後日はもとまち図書館にて。四中遺跡の報告書とその他の発掘調査概報をじっくり見てみたいと思っています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 歴史研究は楽しいものだという「おもいこみ」は捨てた方が良いです。
 楽しいというのは「古代史ファン」のレベルに留まっている限りでのこと。研究するレベルに入ると、しんどいこと、苦しいこと、投げ出したくなることはたくさんあります。
 これに耐えられるのは「発見」の喜びを知った人だけです。
 あきらめずに努力していきましょう。

始める前よりは,少しは強くなれたような気がします。

〉  明後日はもとまち図書館にて。四中遺跡の報告書とその他の発掘調査概報をじっくり見てみたいと思っています。

よろしくお願いいたします。

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