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2018年9月15日 (土)

「東偏・僕」の東北遠征

今日の肥さんは,北へ向かいます。

歴史教科書には,こう書いてあります。

「797年,坂上田村麻呂はが征夷大将軍に任命されると,
801年,4万人の朝廷軍を率いて,ようやく胆沢地方を平定し,
翌年,大きな胆沢城をつくりました。アテルイは,軍を率いて・・・」

ここで私が言いたいのは,802年に大きな胆沢城を朝廷軍がつくるまで,
誰も城を築いていなかったのか,小さな城か分からないが誰か築いていなかったのか,ということです。
わかりやすくいえば,最初に九州王朝が築いていたのではないか・・・。
大和の朝廷軍は,白村江の戦いをきっかけにして滅亡した九州王朝の後を受けて,
1度蝦夷側に渡った胆沢城や志波城を取り戻しに遠征したのではないかということです。
それには,やはりいつもの「東偏・僕」の作戦で行きたいと思います。

(1) 多賀城と多賀城廃寺

前者は,築地外(北方)に東偏の掘立建物群を見出しました。(東偏8度くらい)
また,後者はそれとは違う東偏15度くらいを見出しました。

Dscn3483

(2) 胆沢城と志波城

前者は,正方位のほか,東偏5度と東偏10度を見出しました。何回も建て替えられたようです。
後者は,築地や堀に東偏8度が見出されました。

ということで,大和が朝廷軍を派遣する以前にも,
九州王朝の「胆沢城」や「志波城」があったのではないか,
そういう感想を持ちました。

Dscn3484


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

古代紫波城跡9月10日行ってきました。
9月8日が紫波城まつりだったようですが、一日雨で中止になったようです。

肥さんのブログで読んでいた東偏に気をつけて見ましたが
確かに少しずれているようでした。
多賀城よりも大規模だったとのことです。

20年も前に門と塀が建てられていました。


1200年も前のものだそうですね。

そこに駐車場の入り口のわれもこうが見事でした。

翔空さんへ
コメントありがとうございます。

〉 肥さんのブログで読んでいた東偏に気をつけて見ましたが
確かに少しずれているようでした。

翔空さんもだいぶ「東偏・僕」になってきましたね。
うれしいです。

〉 紫波城

現地ではそう書くのですか?
教科書だと「志波城」と書いてありますが・・・。

肥沼さんへ

 蝦夷国にも東偏の建物群がありましたか。
 遺跡は嘘をつきませんね。
 九州王朝時代にもすでに、蝦夷国に胆沢城や志波城や多賀城、そして多賀城廃寺を作っていたのですね。
 ただし肥沼さんの記述には問題もあります。
>わかりやすくいえば,最初に九州王朝が築いていたのではないか・・・。
大和の朝廷軍は,白村江の戦いをきっかけにして滅亡した九州王朝の後を受けて,
1度蝦夷側に渡った胆沢城や志波城を取り戻しに遠征したのではないかということです。
 
 このように書くと、胆沢城や志波城そして多賀城が「軍事拠点」であったようなイメージに取られかねません。
 でも遺構を見ていただけば分かるように、「城」と言っても築地塀と堀しかありません。土塁や城壁はないのです。
 だから胆沢城や志波城そして多賀城は軍事拠点ではなくて政庁、その地域を統治する行政上の役所にすぎないのです。
 平安時代になっての桓武朝での遠征までは、多少軋轢はあったものの比較的蝦夷と大和朝廷の関係は平穏です。
 ここで軍事力で屈服させなければならなかったのは、朝廷が蝦夷の人々を虐げたからです。これに対する反乱が起き、統治拠点の城を反乱軍に奪われたから軍事的に制圧したのです。そして史書を見ればわかるように、そのあとも軍政を敷いたかというとそうではなく、殺されたのは最後まで戦った首長たちだけで、苛烈な支配を緩めて、再び服属した首長たちを国司の下等官につけて、実際の統治は任せ、朝廷は国司のトップに宮廷貴族や軍事貴族をつけて、これを監督したのです。
 蝦夷の人々は朝廷が妥協を維持する限りでこれに服属した。

 ではまったく蝦夷と大和朝廷(近畿天皇家)はずっと平穏な関係だったのか。
 九州王朝から近畿天皇家に列島宗主権が移る時期に、蝦夷反乱が記録されています。
 つまり「城」とは言っても軍事拠点ではない政庁が築かれていたということは、蝦夷国は九州王朝の統治に服していた(その前は戦ったし、唐との戦いに備えて九州王朝が蝦夷国の完全支配を目指した時期も戦ったが)。
 しかし列島宗主権が移ったとき蝦夷国は近畿天皇家からの独立を図ったが失敗し統治に服することとした。
 だが桓武朝の苛烈な支配に対して蝦夷国の人々は再び立ち上がり反乱したと。

 つまり胆沢城や志波城そして多賀城は、近畿天皇家が列島宗主権を奪い取ってからは近畿天皇家による統治の拠点であったのだと思います。
 実際に多数の中央官人が赴任していますから。

 蝦夷と九州王朝・近畿天皇家の関係は、支配と服属、さらに支配の強化と服属の繰り返しで、その間に何度も蝦夷の人々は反乱を繰り返し、朝廷側も反乱を受けて一定の妥協をして蝦夷の服属を勝ち得ていたということだと思います。
 その繰り返し。
 桓武朝の反乱と武力鎮圧の、この繰り返された歴史の一コマ。

 この点、お間違いのないように。

 追伸:発掘報告の図の検証は、もうすこし慎重に。

●多賀城
 たしかに北方地区には東偏8度の掘立柱建物がみられます。
 そして中央の政庁は正方位。
だがそれ以外は西偏。
五万埼地区には西偏建物も。外郭東文地区は全体が西偏 平安時代の遺構
長大な土塁で囲まれたのは平安時代、つまり桓武朝だと思う。

●多賀城廃寺

遺構全体図・伽藍配置図は磁北で書かれている。
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m104163-18659/up2.jpg
の図面2全体図でみると、伽藍南北中軸線は磁北から東に15度10分。そして磁北は真北からは東に7度2分。
つまり伽藍中軸線は東偏8度8分だ。

●胆沢城

政庁築地の東辺南部:東偏3度
政庁北辺建物(西側):東偏3度
 その西側の北辺:東偏3度

政庁東南の官衙には多数東偏3度の建物が見られる。さらに東偏5度・10度の建物も。

図4、80次調査区周辺図
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m100648-18479/fig12.jpg
が遺跡の中央政庁と東方官衙の全体を示す図ですのでこれで確認を。

●志波城

建物も東偏8度ですね。


訂正です。
 先のコメントに間違いがありました。
 九州王朝が唐との戦いに備えて、いまだ服属していない津軽やその北の蝦夷、さらに海を越えて粛慎まで討伐し服属させていたことは事実です。
 この時期特徴的なのは、一方で唐と友好関係を結んでいた近畿天皇家が蝦夷を饗応していることです。この結果が、斉明五年・659年の遣唐使(当時は西海使とよんだはず)が蝦夷の人を唐に連れて行って皇帝に見せるということにつながる。 
 だから九州王朝から近畿天皇家へと列島支配権が移ったときに蝦夷が反乱したというのは間違い。むしろ友好関係を結んでいた。
 だがそのご次第に近畿天皇家は蝦夷支配を強めていく。
 何しろここは唯一の金産地だし、鉄も馬も、さらにラッコの毛皮や鷹の羽も(この最後の二つは蝦夷地との交易品だが)。税を重くしてもっと欲しくなる。
 この過程で何度も蝦夷の反乱と服属・相互の妥協が繰り返され、そのうちの一つが坂上田村麻呂を征夷大将軍とした桓武朝の征討があった(この過程はまだまだ続き、前九年の役・後三年の役と続き、半ば独立した平泉藤原政権成立にまでいく。東北が完全に朝廷に服属したのは、頼朝による藤原政権討滅以後)。
 このあたりは、書紀と続日本紀以下の正史を参照してください。

確かに志波が正解でした。
紫波町というイメージがあるのでそうなってしまいました。

西武ライオンズ球場での楽天最終戦
菊池で勝つことができました。
今シーズンは、ご一緒できませんでしたね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  蝦夷国にも東偏の建物群がありましたか。
 遺跡は嘘をつきませんね。
 九州王朝時代にもすでに、蝦夷国に胆沢城や志波城や多賀城、そして多賀城廃寺を作っていたのですね。

そうなんですよ。一応調べておこうとやってみたら,そういう結果になりました。
ばらばらだと意味が薄くなるので,「東北遠征」として4つでまとめてみました。

〉  蝦夷と九州王朝・近畿天皇家の関係は、支配と服属、さらに支配の強化と服属の繰り返しで、その間に何度も蝦夷の人々は反乱を繰り返し、朝廷側も反乱を受けて一定の妥協をして蝦夷の服属を勝ち得ていたということだと思います。
 その繰り返し。
 桓武朝の反乱と武力鎮圧の、この繰り返された歴史の一コマ。

 この点、お間違いのないように。

もちろん何度も何度も「繰り返し」があったと私も思います。
なので,私も「わかりやすくいえば」と書いています。そう単純ではないと。

〉 この点、お間違いのないように。
 追伸:発掘報告の図の検証は、もうすこし慎重に。

今回はGoogleも使用してみたのですが,まだ慣れていないのでしょうね。
少しずつは「進歩」する努力はしております。
検証ありがとうございました。m●m

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  この時期特徴的なのは、一方で唐と友好関係を結んでいた近畿天皇家が蝦夷を饗応していることです。この結果が、斉明五年・659年の遣唐使(当時は西海使とよんだはず)が蝦夷の人を唐に連れて行って皇帝に見せるということにつながる。 

そういえば,そういう記事がありましたね。
へー,そんなこともしたんだと驚きましたが…。

〉  何しろここは唯一の金産地だし、鉄も馬も、さらにラッコの毛皮や鷹の羽も(この最後の二つは蝦夷地との交易品だが)。税を重くしてもっと欲しくなる。

そういう記事もなかなか教科書ではお目に掛かれないですね。
なんか朝廷の支配に従わない野蛮人みたいな感じで。
(「蝦夷」という言葉自体がそうで,「愛瀰詩(神武東征記)」という表記を知って驚きましたから)

肥沼さんへ

 「蝦夷」という字面で、「こいつらは従わない野蛮人だぞ」といっているわけで、本来は音の「エミシ」ですね。
 東北が金の大産地だという話は、大仏建立の所で、金メッキのための金が見つかったという記事しか史書にもありませんね。
 いつでしたかNHKのブラタモリで平泉をやったとき、平泉東方の山地は金の大産地だということを地質を使って説明していました。
 またここが鉄の大産地だということも、砂鉄が同時に大量に川床にあるという話でやっていましたね。
 ここは古代から「餅鉄」という、天然の鉄の塊が取れるところ。
 川床や沼の底に大量の砂鉄が眠っていて水にそして泥に大量の鉄分が含まれていると、植物がそれを水とともに摂取して、長い時間をかけて植物の胎内を通じて排出され植物の根元にほぼ純粋な鉄の塊ができる。
 これだと砂鉄や鉄鉱石のように精製が必要ではないので、すぐに鉄製品に加工できる。僕の「徹底検証新しい歴史教科書」古代編の聖武朝と桓武朝の蝦夷征討記事の中に餅鉄の写真とともに書いておきました。

 そして九州王朝や近畿天皇家にとって蝦夷の東北がとても重要になったのは、朝鮮半島の領土を失ったからです。
 朝鮮半島の南部、特に古に弁韓と呼ばれた地域(その後は加羅諸国とよばれました)は史書にも書かれるほど著名な鉄の産地。倭国がこの地域を領土としたのも鉄が目的ですし、高句麗と、そして新羅や百済とここを取り合ったのも鉄が原因。
 だから新羅に加羅を併合されて何度も戦い、さらに朝鮮における同盟国百済を唐・新羅に攻め滅ぼされて百済再建の戦いに乗り出したのも、鉄が目的。
 結局長い時間かけて取り戻そうとしたが失った。
 となると日本列島内の最大の鉄産地である蝦夷の領域は、喉から手が出るほど欲しい。
 ということで本来は友好国であった蝦夷の国を支配しようともくろんだのです。
 あと鉄とともに、馬・鷹の羽・ラッコの毛皮は、全部軍事物資ですね。戦に不可欠な道具。
 蝦夷の地域では弥生時代の初めから稲作も行われており、鉄製品も自給できて金も産出し、これらの産物を使ってさらに北方の今の北海道やさらに東の千島列島からアリューシャン列島、そしてオホーツク沿岸の民と交易して、鷹の羽やラッコの毛皮など、この地域の特産を手に入れて、それと日本列島内の国々と交易して栄えていた国です。しかもご存知かと思いますが、九州王朝や近畿天皇家の軍隊は歩兵+重装騎兵でした。分厚い鉄の鎧で兵士は身を固め、馬まで鉄の鎧をまとっている。とても動きの遅い軍隊。
 しかし蝦夷の軍隊は軽装騎兵。馬は乗馬のための器具を付けただけの裸馬。兵士は皮の鎧。しかも武器の弓は短弓で至近距離から鉄の鎧すら射抜くほどの強弓。さらに刀は直刀ではなく柄のところから曲がった湾曲刀。このため蝦夷の軽装騎兵に急襲されると九州や近畿の軍隊は動きが取れず囲まれて壊滅する。
 このありさまは続日本紀に詳しいですね。
 この蝦夷の軽装騎兵に対抗して勝てるように、鎧と刀を工夫して現れたのが武士。
 彼らの馬は乗馬のための器具とつけただけの裸馬。そして鎧は鉄の短冊を皮で編んだそれまでより動きやすい軽い鎧。そして刀も直刀から柄から湾曲した馬上から振り下ろすに便利な日本刀。
 この皮鎧と湾曲した日本刀を開発させられたのが、すでに朝廷に服属していた関東の蝦夷です。
 だから武士団の発生は関東から。

 そうそう。この蝦夷を統括した首長たちこそが、「東日流三郡誌」に描かれた、「邪馬台」から天孫族に追われてきた「ナガスネヒコ」「アビヒコ」らの子孫ですね。この流れをくんだ蝦夷首長が前九年の役のときの安倍氏。安倍氏の娘を母にし藤原氏の流れの軍人を父としたのが清原清衡。彼は太平洋側の蝦夷の首長安倍氏と日本海側の蝦夷の首長清原氏の勢力をわがものとして、平泉藤原王朝をつくった。
 この三代のミイラと四代の泰衡の首が金色堂に残されていてその人類学的形質検査と遺伝子検査をしたら、もっとも近いのが現代の京都人と古代の弥生人だった。少なくとも蝦夷の首長はこういう人たちであったのですね。
 蝦夷のイメージが変わったでしょ。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私だけがこの情報を独占しては申し訳ないので,
「夢ブログ」に転載させていただきます。

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