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2018年9月22日 (土)

「東偏」から「正方位」への変化について

九州王朝は,倭の五王であり,南朝に使いを送った。
これを柵封体制という。(まだ,讃・珍・済・興・武とか教えているのかな?)
普通だとそこで終わるが,教科書に書いていない歴史が地下に残った。
ただ使いを送るだけでなく,その国の文化(東偏。のちに正方位)を真似ることによって,
忠誠を示すようにした。(国内的には,それを押し付けた)

4~12世紀は日本列島は地磁気学的な研究によると「西偏」だったらしいので,
磁石で建物の方位を決めると,必ず西偏の磁北が採用されてしまう。
だから,東偏にするということは,磁石ではない方法が使われただろう。
それもどうやら,5度ごとの感じなので,5・10・15・20・25度と。

そして,全国にそれを軍用道路である東山道や東海道などのルートを利用して普及していった。
なので,多くの寺院や街並みが東偏5度や5度ごと,
あるいはその中間の方位で表現されることになった。

余談になるが,学校の教室で机を教卓の「方位」に向けさせるには,
かなり「政治的意味」があると思う。
先生の位置から見ると少しの「方位」の違いもわかってしまうからだ。
先生は言うだろう,「君の机が,少しだけ曲がっているよ」と。

さて,時代は変わって,北朝のボス・隋が国分寺二寺制や都の正方位を採用していたので,
倭国・九州王朝も対抗してそれらを採用したと考える。
そして,太宰府も正方位で作るようにしただろう。(あるいは途中からプラン変更して正方位か)
そして,多利思北孤(聖徳太子ではなく)は,「日出ずる処の天子・・・」の国書を送った。

つまり,「私たちはもう南朝の一の子分ではなく,あなたと同じ独立国(対等)です」と言ったと思うのだ。
(あるいは,南朝を継ぐのは私たちです,と。「継体」もそこから由来)
それは当然隋を激しく刺激しただろうし,隋がもっと長く続けば戦争にもなっただろう。
しかし,そうなるには,隋はあまりに短命だった。

北朝の後を継いだのは唐だったから,当然倭国ともトラブルになる。
話は端折るが,663年の白村江の戦いを機に九州王朝は凋落の一途をたどり,
701年には大和王朝が日本の主権者となった。(年号も,大宝が最初だと「続日本紀」が書く)

大和王朝は正方位の都や寺院の方位を採用し,それまで東偏だったものを
改めていったのではないかと思う。
それは国外的には唐に忠誠を誓う意味もあるし,
国内的には東偏の方位を支持する九州王朝文化の追放にもなるだろうから。
それを拒否すればどうなるか。それは「おとりつぶし」の運命が待っていた」と思う。

東偏から正方位の変化が藤原京の建設辺りからになっているのは,
その時期までに,方位の決定権も大和王朝に移ったことを象徴しているのではないかと思う。

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コメント

肥様

東偏についてのまとめ記事ありがとうございます。

悪い癖なのか、またしょーもない疑問が浮かびましたので失礼いたします。

>さて,時代は変わって,北朝のボス・隋が国分寺二寺制や都の正方位を採用していたので,倭国・九州王朝も対抗してそれらを採用したと考える。

>「私たちはもう南朝の一の子分ではなく,あなたと同じ独立国(対等)です」と言ったと思うのだ。

九州王朝が独立国家になった。隋との対等国家と認めてほしい?
→だから、正方位を採用

>大和王朝は正方位の都や寺院の方位を採用し,それまで東偏だったものを改めていったのではないかと思う。
>それは国外的には唐に忠誠を誓う意味もある(略)

大和王朝が唐に忠誠を誓う
→だから、正方位を採用

これって、矛盾していませんか?
九州王朝が正方位を採用すれば、隋への反発
大和王朝が正方位を採用すれば、唐への忠誠

多利思北孤は隋に数十人の使者を仏教を学ばせるために派遣していますし(隋側の言い分)

通りすがりの素人さんへ
コメントありがとうございます。

ちょっと私にはよく理解できないのですが,
「隋への反発」というのは
「倭国・九州王朝も対抗してそれらを採用」の部分のことでしょうか。
私は「独立心」とか「自己主張」みたいな感じで書いたつもりなのですが。

肥沼さんへ

・九州王朝:南朝が存続した時代は東偏⇒隋の統一・正方位へ変更
・大和王朝:唐以前は東偏⇒唐成立・正方位へ

 肥沼さんはこのように認識しておられますが、奈良県古代寺院を全部精査してみると、このように単純に言い切ることは無理です。
 精査結果を見ますと、6世紀末から7世紀初頭にすでに「東偏」「西偏」「正方位」の寺院が併存していることがわかります。
 特に正方位で最も古い飛鳥寺と東偏の坂田寺、西偏の豊浦寺はほぼ同じ時期に造営されたものと考えられているのですが、それぞれ方位が異なります。どれも素弁蓮華文軒丸瓦が出土していることは同じです。
 この奈良県の古代寺院精査からは「東偏」寺院がもっとも古いとは結論できません。
 もっとも近畿天皇家に仏教が入ったのがこの飛鳥寺創建の少し前なので、それより古い寺がないからこういう結果になったとも考えられます。
 西偏寺院の中でも古い方の只塚廃寺の前身となる氏族館が東偏であり、これは6世紀末と目されていることがこれを証明するかもしれませんね。官衙遺構の中の東偏のもののなかに6世紀の中ごろとか前半のものがあれば、東偏が一番古いと結論づけられるかもしれませんが。

 また近畿天皇家が、天武期あたりから寺院を正方位にし、藤原京・平城京では完全に正方位なのはたしかです。つまり九州王朝が唐と戦って敗北して事実上消滅して以後は正方位だということは確実です。
 さらに正方位を見ていると、飛鳥寺・奥山久米寺・平隆寺が極めて早い正方位寺院であることに気が付きます。これは飛鳥寺の元の名前が「法興寺」という九州王朝年号を冠した寺であることに注目すると、これら三つの寺院は九州王朝およびその傘下の有力豪族が建立したと考えることができます。
 そして飛鳥寺の創建年代が隋王朝による中国統一の時代であることに注目すれば、この例は、九州王朝が隋中国統一に対抗するように天子を称したことと並行して、寺院や宮を正方位にした証拠と判断することができるかもしれません。

 近畿天皇家内部において、6世紀末の時期から「東偏」「西偏」「正方位」の寺院が並行して作られたことは、この王家内部に、隋唐と対抗しようとする九州王朝に追随する勢力(=正方位)と、これとは明確に路線を異にしようとする勢力(=西偏)と、両者に挟まれて逡巡し今までのままでと考える勢力(=東偏)があったことを意味しているのかもしれません。

 いろいろ解釈はできますが、近畿の中枢の寺院ですから土師器須恵器瓦の編年が、九州や関東のように100年もずれるということはないと思います。
 ということは寺院の方位だけでは、「東偏」が九州王朝のものだと断定できないことになります。

★奈良県古代寺院精査結果★
大和国古代寺院方位別・年代別表

★東偏の寺院群★

①6世紀末から7世紀前半:
●坂田寺 奈良県高市郡明日香村祝戸 存続時期 飛鳥時代~ 作多須奈(くらつくりたすな)が用明(ようめい)天皇(在位585~587)の病気平癒を祈るため出家修道した寺(日本大百科全書)7世紀初頭
以後の素弁蓮華文軒丸瓦出土
●定林寺 奈良県高市郡明日香村立部字堂山 存続時期 飛鳥時代 素弁蓮華文瓦片なども出土
●和田廃寺 奈良県橿原市和田町 右京十・十一条一坊。 右京十一・十二条一坊にあり素弁蓮華文軒丸瓦出土 存続時期 7世紀前半~
●巨勢寺 奈良県御所市古瀬字大口 存続時期 白鳳~ 素弁蓮華文軒丸瓦出土

②7世紀中葉以後:
●額安寺 奈良県大和郡山市額田部寺町(熊凝精舎・額田寺)存続時期 7世紀第2四半期~ 創建瓦とみられるものは単弁六弁蓮華文軒丸瓦で、7世紀第II四半期に位置付けられる。境内西側からは法
隆寺の創建伽藍(若草伽藍)出土瓦と同型の手彫り忍冬唐草文の軒平瓦が出土
●木之本廃寺 奈良県橿原市木之本町 藤原京左京六条三坊 存続時期 7世紀中葉
●紀寺南 奈良県高市郡明日香村小山 歴史環境 左京九条二坊・北に紀寺 存続時期 7世紀中葉~

③7世紀末から8世紀:
●大神寺 奈良県桜井市三輪  前身大神氏居館 7世紀後半から8世紀前半 8世紀後半正方位
●比曾寺 奈良県吉野郡大淀町比曽 存続時期 7世紀後半~
●安楽寺 奈良県宇陀市菟田野区駒帰 存続時期 8世紀初頭~

★西偏の寺院群★

①7世紀初頭から前半:
●豊浦寺 奈良県高市郡明日香村豊浦 存続時期 7世紀初頭~
●橘寺 奈良県高市郡明日香村橘 存続時期 7世紀第1四半期~
●中宮寺 奈良県生駒郡斑鳩町幸前字田殿 存続時期 7世紀前葉~ 西偏4~5度
●法隆寺 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺 存続時期 7世紀前半~若草伽藍 西偏 30度?
●法輪寺 奈良県生駒郡斑鳩町三井字井垣 山背大兄王と孫由義王発願 西偏10度
●法起寺 奈良県生駒郡斑鳩町岡本字池尻 聖徳太子の岡本宮 存続時期 7世紀前半~西偏7度 下層遺構 西偏 30度
●高宮廃寺 奈良県御所市鴨神 存続時期 白鳳時代ヵ
●只塚廃寺 奈良県葛城市染野・当麻 存続時期 7世紀前半~金堂西偏2度30分 前身氏族居館東偏

②7世紀中葉以後
●片岡王寺 奈良県北葛城郡王寺町本町 当麻街道の沿道 存続時期 7世紀中葉
●檜隈寺 奈良県高市郡明日香村檜前 存続時期 7世紀後葉~ 西偏 23度19分
●二光寺廃寺 奈良県御所市西北窪小字二光寺 存続時期 7世紀後半 西偏4度
●石光寺 奈良県葛城市染野 二上山東麓 存続時期 7世紀末葉~

③8世紀以後
●毛原廃寺 奈良県山辺郡山添村毛原 存続時期 8世紀中葉~ 西偏7度
●興善寺 奈良県橿原市戒外町 香具山寺・香山寺


★正方位の寺院群★

①6世紀末から7世紀初頭
●飛鳥寺 奈良県高市郡明日香村飛鳥 存続時期 崇峻元(588)年~
●奥山久米寺 奈良県高市郡明日香村字奥山 存続時期 7世紀前半~
●平隆寺 奈良県生駒郡三郷町勢野字防垣内 存続時期 7世紀初~

②7世紀中葉から・天武期と思われる寺
●山田寺 奈良県桜井市山田 存続時期 641年~ ほぼ正方位 西偏1分
●横井廃寺 奈良県奈良市藤原町横井字堂所 存続時期 7世紀中葉~
●願興寺 奈良県天理市和爾町・中ノ庄町 山辺の道に沿った 存続時期 7世紀中葉~
●長寺 奈良県天理市檪本町長寺 存続時期 7世紀後半~
●軽寺 奈良県橿原市大軽町字寺垣内 『日本書紀』朱鳥元年八月己丑条に「桧隈寺軽寺大窪寺各封百戸限卅年」とあり。天武期の寺院
●川原寺 奈良県高市郡明日香村川原
●朝妻廃寺 奈良県御所市朝妻字僧堂 金剛山東麓 存続時期 7世紀後半~

③藤原京条坊に伴う寺:7世紀中葉から
●木之本廃寺 奈良県橿原市木之本町 藤原京左京六条三坊 正方位に建て替え
●田中廃寺 奈良県橿原市田中町 右京十条二坊西南坪 存続時期 7世紀中葉~ 単弁蓮華文(たんべんれんげもん)軒丸瓦(田中廃寺式)
●本薬師寺
●安倍廃寺 奈良県桜井市阿部 「仲麻呂屋敷」の字 存続時期 7世紀中葉~
●小山廃寺 奈良県橿原市木之本町・高市郡明日香村小山 左京八条二坊 存続時期 7世紀後半~
●大官大寺 奈良県高市郡明日香村小山・橿原市南浦町 左京九条四坊の南半二町と十条四坊の二町 存続時期 文武朝~和銅四(711)年焼失ヵ
●吉備池廃寺 奈良県桜井市吉備 百済大寺か 香具山の東北東 存続時期 7世紀中葉~後葉


④平城京条坊に伴う寺:8世紀初頭から
●秋篠寺 奈良県奈良市秋篠町字矢部内 光仁天皇勅願。
●阿弥陀浄土院 奈良県奈良市法華寺町 天平宝字三(759)年光明皇后発願の寺
●阿弥陀谷廃寺 奈良県奈良市敷島町 8世紀前葉~
●海竜王寺 奈良県奈良市法華寺町 前身寺院→不比等邸(皇后宮)→海竜王寺となる
●元興寺 奈良県奈良市池之内町ほか 法興寺(飛鳥寺)の後身。718年~
●興福寺 奈良県奈良市雑司町・登大路町 存続時期 710年~
●西大寺 奈良県奈良市西大寺町 孝謙上皇により発願。存続時期 764年~
●西隆寺 奈良県奈良市西大寺町 称徳天皇御願の寺 存続時期 767年~
●新薬師寺 奈良県奈良市高畑町 存続時期 天平19(747)年~
●東大寺
●法華寺 奈良県奈良市法華寺町 存続時期 天平17(745)年~
●大安寺 奈良県奈良市大安寺町 存続時期 716年頃~
●姫寺 奈良県奈良市東九条町姫寺 海竜王寺前身寺院と同笵瓦。移築ヵ。存続時期 8世紀~
●古市廃寺 奈良県奈良市古市町字上ノ段 存続時期 8世紀ヵ~8世紀末葉から
●薬師寺
●大神寺 奈良県桜井市三輪 前身寺院建て替え8世紀後半
●地光寺(慈光寺)奈良県葛城市笛吹字地光寺、脇田 8世紀初めから前半に西遺跡へ移行

●長林寺 奈良県北葛城郡河合町穴闇字大門 馬見丘陵東縁部
●尼寺廃寺 奈良県香芝市尼寺~北葛城郡王寺町畠田

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

大量の情報の精査.ご苦労様でした。
私などとても及ばないところです。
同じ王朝内の別々の動きまで入ってくると,
なかなか複雑になるのですね。
当たり前と言えば当たり前の話ですが,
歴史を研究するというのは実に難しいと思いました。

肥沼さんへ
>大量の情報の精査.ご苦労様でした。
私などとても及ばないところです。

 特に大量の情報を精査したわけでもなく、奈良文化財研究所の古代寺院データベースにある奈良県の寺院をすべて(もちろん遺構で確認できるものだけ)、「東偏」「西偏」「正方位」に分類し、そのあとこのデータベースの元になっている年代判定がデータに添えてあるのでこれを入れておいて、あとで年代別に並べ替えただけのことです。
 付け加えたのは素弁蓮華文軒丸瓦の発掘情報だけ。
 分類して並べ替えるだけなら1時間と少しでできました。
 考察には三日ほど間を置いて、なんどか考えましたが。
 やる気になればすぐできることです。

 実は奈良県をやるまえから、こうなることは予想していました。
 もっとも古い飛鳥寺が正方位、これに次ぐ7世紀初頭の斑鳩の諸寺院が西偏であることはわかっており、藤原京と平城京の寺院は正方位なのが当たり前。あとは東偏がどれだけあるかと、その年代だけが分っていないことだったのです。

追伸
>同じ王朝内の別々の動きまで入ってくると,

 これは私の解釈にすぎません。
 データを並べてわかったことは、6世紀末から、近畿天皇家のおひざ元の大和国では、「東偏」「西偏」「正方位」の寺院が並行して作られていたということです。
 どれか一つが先行しているわけではない。
 この事実を(畿内ですから土器・瓦の年代は正しいと判断して)どう解釈するかということで、導き出したのが「同じ王朝内の、国際路線(とおそらく王位継承をめぐる)をめぐる別々の動き」ということなのです。
 根拠はすでに推古朝で、九州王朝とは別の外交路線をとり、隋に朝貢した形跡があること、そして蘇我本宗家討滅と孝徳朝での孝徳と中大兄の対立の背景にも外交路線がありそうだと判断したこと。
 一つ新たに確認したことは、文献で確認できる最も古い寺院である飛鳥寺(法興寺)が、正方位の伽藍であり、もしかしたらこの時期に九州王朝が東偏⇒正方位へ変えたことの証拠かもしれないということです。

 他の地域でも、東偏寺院を析出するだけではなくて、西偏も正方位も分類し、さらに土器や瓦から判断された年代を含めて分類してみたらどんな結果が出てくるか。
 これをやってみると面白いと思いました。
 東偏の寺院が全国に分布していることはすでにわかったことなのですから。
 その東偏寺院の年代と地域毎の分布の特色。これが今後の課題です。
 今思いました、九州、とりわけ福岡県でやるとどうなるのでしょうね?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 今思いました、九州、とりわけ福岡県でやるとどうなるのでしょうね?

奈良県の様子も興味深かったので,
九州王朝のお膝元である福岡県をやってみますかね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 もっとも古い飛鳥寺が正方位、これに次ぐ7世紀初頭の斑鳩の諸寺院が西偏であることはわかっており、藤原京と平城京の寺院は正方位なのが当たり前。あとは東偏がどれだけあるかと、その年代だけが分っていないことだったのです。

じゃあ,少しは私の作業もお役に立てたというわけですね。
やった甲斐がありました。

肥沼さんへ

>奈良県の様子も興味深かったので,
九州王朝のお膝元である福岡県をやってみますかね。

 ぜひやってみてください。
 古代寺院の方位別年代別分類と古代官衙の方位別年代別分類です。この地域はきっと時代が100年ほど後ろになると思います。

 その前に是非、奈良県の古代官衙遺構の方位別年代別分類をやってみてください。6世紀代の遺構がみな東偏なら、九州王朝が東偏の可能性が高まります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 その前に是非、奈良県の古代官衙遺構の方位別年代別分類をやってみてください。6世紀代の遺構がみな東偏なら、九州王朝が東偏の可能性が高まります。

はい,やってみます。
それに加えて,宮殿遺構も岡本宮以外は正方位という情報が入りました。
武澤秀一著『建築から見た日本古代史』(ちくま新書)は,
かなり遺構の方位を意識した本です。
本日別項で紹介します。

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