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2018年9月 4日 (火)

上総国分寺の謎が解けた!

「東偏5度」を使って九州王朝が作った寺院や町並みを探しているのだが,
建て替えられたり,礎石が失われていたりすることもあるので,
なかなか「今日も○個見つけたぞ!」とはうまくいかない。
今朝もそのような作業をしていて,「最後の1個」にしようと思ったのが,例の上総国分寺。

 川瀬さん・・・○上総国分寺:西偏5度。※大きく異なる、再確認の必要あり。

 山田さん・・・尼寺もそうですが幾つもある中軸線や各伽藍ごとに方位が異なっています。
 一概に何度などとはいえないので注意が必要です。

とお二人とも,ご思案の様子。

さらに,『国分寺の創建 組織・技術偏』の編者である須田勉さん自身も,
櫻井敦史さんとの共作「上総国分寺」の項(P302~320)で分析しているが,
これぞ!というものは書いていないように感じた。

ただ,須田さんはこの項の中で「「政治的な要因で計画を刷新したか」と
いい線をついているなとも思った。ただ,やはり一元史観の方なので,
741年の「国分寺建立の詔」という呪縛から抜け出しておらず,
いわば「自分の首を自分でしめてしまっている」のが残念だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

では,そろそろ大御所(いつからそうなったのかは秘密)の肥さんの登場である。
二人の論文には何枚か図がついていて,思考を助けてくれる。
まず,全体の敷地である。

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この中に何か価値のあるものを見出せれば,上総国分寺の謎は解け始める。
私はまず「東偏5度」の軸を探した。まず,この寺院地の外枠自体がそれらしく傾いている。
当初の計画では,やはり「東偏5度」で建てられたようである。
それに,いくつかの建物の方位も「東偏5度」に見えた。すなわち,東南ブロックの掘建柱建物や
西ブロックの2つの立派な建物風のものである。ページをめくってみた。すると・・・

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立派に見えたのもそのはず,それらは泣く子も黙る「四面庇(ひさし)」の2棟だったのである。
そして,その建設に携わっていたかに見える東南ブロックの掘立柱建物軍は,その後・・・
なんと北ブロックに方位を変えてちゃっかり「お引越し」をしているではないか!

須田さんも書いているが,ここに「大きな政治的な要因」があったのだと思う。
私の考えから行くと,中国の南朝(首都・建康)に倣って東偏の寺院や街作りをしていた九州王朝が,
北朝の隋に対抗して東偏5度から正方位の国分寺に作り変える時代。
私たちはそれを1400年後に見ているのではないかと思った瞬間だった。

せっかく作った四面庇の建物が役に立ったかわからないが,その次に作られたのが講堂だろうか,
須田さんは「A期中心建物か」と書いている。(「東偏5度」時代の最後という意味では正解かな?)
そして,そこで「東偏5度」の建物群は建設ストップ。
隋に対抗して正方位の建物群が作られて,やがて唐と新羅との白村江の戦いを迎えた。
(塔が回廊の中にあるので,旧タイプと考えた)

つまり,まとめていうと,日本列島の他の多くの地区と同じように上総国分寺は,
まず「東編5度」で建てられ始め,途中で正方位に設計し直された。
一見間抜けにくっついているように見える講堂は,実はそのことを伝えるために
「歴史の神様」が今に残した「タイムマシーン」だったのかもしれないね。(o^-^o)

私たちは発掘の結果すべてわかったことを記入した地図を渡される。
それをすべて頭に入れて,歴史を再現するのは大変である。
今回,私は論文の順番に地図を見ていった。
つまり歴史がたどった順番に見ることが出来た。
それに「東偏5度と正方位」の知識を付け加え,
多元史観で読み解いていったら,上総国分寺の歴史が理解できたというわけだ。
普通は下の地図一枚のみが資料として与えられるわけだから,
なかなか難しいことになってしまうということだ。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

私は「思案」してはいません。「ここに詳しいデータがあります」とお教えしただけです。
上総国分寺は中間報告したあと、私は何も行っていません。

そんなことより、下記データをみて本文を書いているのでしょうか?

寺地区画溝は約8度東偏していますが、肥さんは「寺院地の外枠自体がそれらしく傾いている。当初の計画では,やはり「東偏5度」で建てられたようである。」と書かれています。また、講堂は約13度も東偏していますが、肥さんは「…せっかく作った四面庇の建物が役に立ったかわからないが,その次に作られたのが講堂だろうか,須田さんは「A期中心建物か」と書いている。(「東偏5度」時代の最後という意味では正解かな?)」と書かれています。

私の示したデータが絶対正しいとは主張しませんが、肥さんが寺院地の外枠自体を「東偏5度」、講堂を「「東偏5度」時代の最後」の建物とした根拠はどこにあるのでしょうか?

【上総国分僧寺の方位】
《伽藍》
寺地区画溝 約8度 東偏(北辺だけが約11度)
講堂基壇 約13度 東偏
金堂基壇 約5度 東偏
中門柱 約6度 東偏
回廊(おそらく塀)基壇 約2度 東偏
《中軸線》
金堂・講堂中軸線 約4度 東偏
中門・金堂中軸線 約1.7度 西偏

肥沼さん・山田さんへ

 三人が三人違う資料を見ているのではないでしょうか。
 私がみた奈良文化財研究所のデータベースの資料では、山田さんの提示したデータとかなり異なった結果がでます。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103256-87462/up1.jpg

 この図を計測してみると、
【上総国分僧寺の方位】
《伽藍》
寺地区画溝 5度 東偏(北辺だけが約11度)
講堂基壇 5度 東偏
金堂基壇 3度 西偏
中門柱  2度 西偏
回廊(おそらく塀)基壇 3度 西偏
《中軸線》
金堂・講堂中軸線 ・・・・・講堂が東偏・金堂が西偏なので中軸はとれません。
中門・金堂中軸線 3度 西偏

 一度それぞれが持っている資料を実際に突き合わせて議論しませんか?

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 私の示したデータが絶対正しいとは主張しませんが、肥さんが寺院地の外枠自体を「東偏5度」、講堂を「「東偏5度」時代の最後」の建物とした根拠はどこにあるのでしょうか?

私の使用したのは,『国分寺の創建 組織・技術偏』に載っている地図です。
須田勉・櫻井敦史共著論文「上総国分寺」掲載のものです。
ちょっと自分でも小さい地図だなと思い,また出典も明らかにした方がいいと思って,
奈良文化財研究所のデータペースの中から,「市原市教育委員会「上総国分寺台遺跡調査報告ⅩⅣ 上総国分寺僧寺跡Ⅰ」市原市埋蔵文化センター調査報告書第8集」,2009をコピーして,さらにA5判を拡大してA3判にして,再度赤線を引いてみました。
その結果,私が書いたものでいいのではないかと思った次第です。(東の端については修正して,8度弱としました。台形の土地が原因です)

寺院地の方位は2人で3度違いますが,まず「東偏の国分寺が計画されたこと」には違いはないと思います。私は「今の方位軸」がしりたいのではなく,「上総国分寺も東偏5度(と私は思い,山田さんは8度とおっしゃっていますが)で企画されたものだった」ということを言いたいのです。寺院内の建物はいろいろな後世の事情や地形もあるのでしょうか,バラバラといっていい。それを統一的に理解しようとすると頭がパニックになりそうです。なので,もう20例を越えた「東偏5度の寺院や街作り」という視点で考えてみませんか?というわけです。川瀬さんが提案されましたが,3人がバラバラなことを違う資料で言っていてもらちがあきませんので,1回「上総国分寺のみの議論をする会」を開きませんか?

「A3判の地図に描いてみた」という別項を,ご覧になっていただければ幸いです。
ところで,山田さんの持っていらっしゃるデータのもとはどこのものですか?先ほど川瀬さんのコメントをみたところ,奈良文化財研究所のデータでは,東偏5度を支持するような感じでしたが…。

肥さんへ

僧寺・尼寺ともに『新修 国分寺の研究 第二巻 畿内と東海道』(第十一 上総、担当 滝口宏)にある図です。「滝口図」と私は称しています。
(4)と(5)を読んでいただいていればそこに書いてあるのですが、読んでらっしゃらないようですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 一度それぞれが持っている資料を実際に突き合わせて議論しませんか?

それは名案ですね。古田さんが昔やって下さった白樺湖の一週間の研究会。
誰が勝った負けたではなく,現在の多元的「国分寺」研究のレベルを示す研究会。
もしよかったら,近日中に開きましょうよ。山田さんは,いかがですか?
上総国分寺の話だけに,千葉県市原市で開いたら,山田さんも来やすいですし…。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 (4)と(5)を読んでいただいていればそこに書いてあるのですが、
読んでらっしゃらないようですね。

図4と図5のことですよね。(4)と(5)の意味は。
それでしたら,読んでいますよ。

まず,結論から言うと,こういうことです。
奈良文化財研究所は,北11度を除くの三方の方位を5度と同じにしたが,
それは小数点以下の角度の修正(四捨五入とか切り捨てとか切り上げとか?)
が入っているのかもしれないということです。
または,一番長い距離が東偏5度なので,合計してそれに合わせようということになったか。
分度器は1度未満は老眼にとっても,大変つらいところですが,
よく見ると西端の方位は5度強に見えました。一方東の端は8度弱に見えました。
これは私の錯覚というだけではないと思います。

というのは掘立柱建物群が属している逆向きの台形の土地は,もちろん約ですが,
90度ー85度ー90度ー95度の変な形をしているのです。
だが,5度というのはわずかな違いでもあるので,
これを見逃して方位を取ると間違ってしまうのではないでしょうか。
そして,角度や方位は先に行けば行くほど誤差が大きくなる。

西の端の方位は5度強で,東の端の方位は8度弱。
これを3度の違いととるか,2度の違いと取るか,
もう感性の世界という気がします。普通は気が付きません。
(東偏2度は,武蔵国分寺付近を通る東山道武蔵路と同じ方位のズレです)
先ほど出した写真の後,そういうことを考えましたので正直に書いておきます。

肥沼さんへ

 「よく報告書を読み解いた! ずいぶん読めるようになったね!」と称賛のコメントを書いていたら、先に山田さんが文句を言っておられるのに気がついて、資料の突合せを提案しました。
 その後で肥沼さんから「新修国分寺の研究」と「国分寺の創建」の上総国分寺の項のコピーを頂いていたことに気が付いたので、二つを読んで山田さんと肥沼さんお二人が依拠した図面を確認しました。
 結論から言うと、あまりに小さな図面なので、この図面に依拠してわずか数度の向きの違いを論じるのは無理があると思います。
 私がみた、奈良文化財研究所のデータベースの図面なら、元が発掘報告書だし、画面上で、紙の上でも拡大コピーできるので確実な資料だと思います。
 それでも肥沼さんはよくあの小さい図面でだいたい正確に読み取ったなと感心しました。やはり正確には縮尺の小さな、発掘報告書の付属図面で判断しないといけないし、これでも図面ですから、どうやっても実測値にはかないません。残念ながら伽藍の軸の方位に気を付けて実測し記録した報告書は少ないので、図面から復元するしかないのは残念です。

 そうそう。肥沼さんの上総国分寺の歴史。一か所間違いがあります。
 肥沼さんは正方位に設計変更して国分寺ができたという書き方ですが、上総国分寺の中心伽藍・金堂院+塔は、西偏2もしくは3度です。

 したがって遺構から復元できる歴史は以下のとおり。

1:東偏5度あたりで伽藍を計画:できたのは寺地区画溝(塀?)と付属の官衙群と、のちに講堂に使われた建物。これはもしかしたら初期伽藍の金堂かも。というのは、この上総国分寺の寺地は、南北に長い長方形の東偏5度の寺地に、同じく東偏5度で東西に長い長方形の寺地が付加されたような形をしている。
 この南北に長い長方形の寺地の中でこの建物を置いてみると、北側は付属官衙群なので、その南側に金堂院の中に塔がある形にしようとしたと考えられるからです。

2:正方位の寺院に設計変更:しかしできたのは付属官衙群だけ。主要伽藍はできなかった。

3:のちに西偏2もしくは3度でさらに設計変更:このプランで金堂院+塔という主要伽藍が作られたのだが、なぜか初期伽藍の中心建物を残し、これを講堂とした。

 この初期伽藍の中心建物が残されて、別の方位・プランで金堂院+塔が作られたのは、武蔵国分寺では、初期伽藍の塔が残されて、西偏7度のプランで金堂院+講堂+僧坊などができたこととよく似ています。

 なぜ初期伽藍の一つの建物を残したのか?
 他の建物はどうなったのか?:ここは寺地全体が掘られたわけではないので不明ですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 そうそう。肥沼さんの上総国分寺の歴史。一か所間違いがあります。
 肥沼さんは正方位に設計変更して国分寺ができたという書き方ですが、上総国分寺の中心伽藍・金堂院+塔は、西偏2もしくは3度です。

勢いあまって,正方位に「 」を付けるのを忘れてしまいました。
「正方位」という表現がいいと思います。
私も調べなくてはいけないのですが,もしかしたら磁北がその方位だった時代が
あるのかなと考えて,あえて「正方位」と名付けました。

〉 したがって遺構から復元できる歴史は以下のとおり。
1:東偏5度あたりで伽藍を計画:できたのは寺地区画溝(塀?)と付属の官衙群と、のちに講堂に使われた建物。これはもしかしたら初期伽藍の金堂かも。というのは、この上総国分寺の寺地は、南北に長い長方形の東偏5度の寺地に、同じく東偏5度で東西に長い長方形の寺地が付加されたような形をしている。
 この南北に長い長方形の寺地の中でこの建物を置いてみると、北側は付属官衙群なので、その南側に金堂院の中に塔がある形にしようとしたと考えられるからです。

講堂=初期伽藍の金堂だと私も思っています。なにしろ「東偏5度」の方位です。
「A3判に描いてみた」に訂正地図を載せましたが,たとえ寺院地の東側の方位が
8度近くになったとしても,全体が「東偏5度」プランの可能性が高かったことから考えて,
一番素直な中心伽藍は「東偏5度」の「初期金堂」=講堂だと考えます。

私たちは,いろいろな方位(木)に気を取られてしまって,
全体のプラン(森)を観るのを忘れてしまっていたのではないでしょうか?
まさに「木を見て,森を観ず」です。その結果が,「遭難」という事故です。
それを気付かせてくれたのが,「東偏5度」のアイデアだったという訳です。

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