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2018年9月 2日 (日)

なぜ正方位でない(東偏や西偏の)都があるのか?(川瀬さん)

これは,「東偏5度の寺院と街並み」の理論編とも言うべき文章である。
少なくとも20か所は日本列島で見出される「東偏の寺院と街並み」の背景には,
中国でのこのような考え方があったのであった。(肥沼)

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なぜ正方位でない(東偏や西偏の)都があるのか?(川瀬さん)

肥沼さんへ

 肥沼さんが見つけた東偏5度の都は、秦の咸陽宮です。
 そしてもう一つ私が見つけたのは、漢魏洛陽城です。
 まえに肥沼さんが示した洛陽の地図で航空写真にすると、
洛陽の東の方に「白馬寺」という寺院があり、その東に遺跡が示されています。
 この復元された遺跡は北魏の洛陽城の中心街路で、
この北魏の洛陽城は正方位で作られていますが、
この遺跡の周囲の道路や田畑の境を見ると、
東偏5度になっていることがわかると思います。
 この東偏5度の部分が漢魏の洛陽城です。

 この東偏の洛陽城が放棄され遺構となった時代に北魏がこの地に都を移し、
漢魏の洛陽城に重ねて新しい洛陽城を作りました。
 この都城は広大な碁盤の目の都で、この設計プランが
隋・唐の長安城に生かされたと考えられているのだそうです。

 中国の都の設計プランは前漢の時代に宮殿の北の山に方形の段を築いて地を祭り、
宮殿の南の山に円丘を築いて天を祭り、
それぞれの地と天の祭壇に皇帝の祖先の霊も合わせて祭ることで、
皇帝と天と地とが一体となることでその権威を維持することになったのだそうです
(漢建国からすでに150年経ち、直系の劉氏が途絶えた時代だから)。

 だが漢の時代にはこの思想は主流とならず、この思想で都が作られたのは、
漢を継いだ曹操の魏の段階からとなります。
 魏の洛陽城はこの思想で作られ、方形壇―宮ー円丘が直線で結ばれ、
宮の中心の王の居所として大極殿が作られました。

 となると都の北と南に地と天を祭るにふさわしい地でなければ王城の地となりません。
このため王城の地と定めた場所で、北の山の一番高いところと南の山の一番高いところを
それぞれ地と天を祀る場所とし、この二つを結ぶ線上に宮を置くことになるので、
二つの高地が正方位の南北に有れば都は正方位の南北軸になるが、
二つの高地が正方位の南北になければ、
その地形にそって西もしくは東に都城の軸が傾くことになる。

 秦の時代はまだこの思想がなく、地や天を祀る場は都から遠く離れた山間の地に置かれたが、
漢の時代に都の近くで祀るようになり、前漢の終わりごろから魏の時代に、
この地と天を祀ることと皇帝の祖霊を祀ることが一体化されて、
地を祀る方形壇と宮殿と天を祀る円丘が一直線になるように都を設計するようになった。

 しかし地形に左右されるため、都は必ずしも南北の正方位に作れなかった。
 漢魏洛陽城はこの段階であって東に5度傾いた軸で作られ、建康城もこの段階であったので、
北と南の方形壇と円丘の位置に規定されて軸が東に大きくぶれた。
 この地形に左右されることを排除し、北の方形壇とともに南の円丘を都の南北に
人工的に築いて地と天を祀ることにしたのが、北魏が洛陽に都を移した段階。
 北魏は魏の都城設計思想を下敷きにしてより大規模な都をつくったが、
それぞれの人工の場に変えたため都の設定が自由に。

 したがって北魏の洛陽城からは、地の方形壇ー宮殿ー天の円丘が
南北に一直線に並ぶように設計され、
その直線状の宮殿の中の天子の御座所として設けたのが大極殿であったと言います。
 この北魏の都城設計思想をそのまま受け継いだのが隋唐だと。

 倭国が中国に通交し、倭王の称号を得たのは、後漢の時代が最初。
この都は洛陽で東偏5度の都。そして卑弥呼が親魏倭王の称号と金印を戴いたのが、
まさにこの魏の時代であり、その都は東に5度軸線が傾いた都でありました。

 そしてこの魏を継いだ晋が北からきた遊牧民族に押されて南遷して作ったのが東晋。
この東晋の都が建康で、地形から東偏25度の都であり、
南朝時代の都はずっとここに置かれました。
 ということで倭国の都の設計思想は中国の都城に倣ったわけだが、
漢魏の洛陽城が地形的に北の方壇と南の円丘を結ぶ線が東偏5度だったので、
都城が東偏5度となってしまったのだが、
受け入れた倭国のほうはこれを思想として受け入れてしまったのではないか。

 となります。(アンダーラインは,肥沼)

 参考にした文献は、佐川英治著「中国中古の都城設計思想と天の祭祀」

 https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiOrteServHistIFrame.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART001968773&sereArticleSearchBean.orteFileId=KCI_FI001968773

 なおこの論文では佐川氏は都城の軸線のぶれについては全く注目していません。
 なお佐川氏はこの論文を元に『中国古代都城の設計と思想
円丘祭祀の歴史的展開』勉誠出版2016年刊、11880円を刊行されています。
 佐川氏は現在東大の准教授です。

 また漢魏洛陽城が東偏5度であることを示す図は、
「中国歴史世界」というサイトの「漢長安城 と洛陽城関連地図に、
「杜金鵬、銭国祥主編『漢魏洛陽城遺跡研究』(科学出版社出版、2007年刊)第401頁
図三 東漢洛陽城復原示意図」が張り付けてあります。
 アドレスは
 http://www.geocities.jp/wtbdh192/html/ChangAnCheng.html

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コメント

二点訂正です。

1:漢魏洛陽城ではまだ北方形壇ー宮ー南円丘を結ぶラインの思想はあっても、これを体現した道は存在しません。

2:北魏洛陽城も南北正方位ではなく、東偏5度です。この北魏洛陽城で初めて北方形壇ー宮ー南円丘を結ぶラインが都城の中心道として出現し、都城がこの南北道の東西に対称的に広がります。しかし方形壇も円丘も人工物としてために隋唐長安城のように正方位の南北の都城出現に道を開きました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

これでまた新しい角度から
多元的「国府」研究・多元的「国分寺」研究に
向かって行けると思います。

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