「歴史の発達段階」とともに変わる都づくり(おもいつき)
「東偏5度が多いのは分かった。
九州王朝が南朝の東偏の都・建康のまねをしようとしたのも理解できる。
だが,なぜ東偏なのかがよくわからない」
と多くの人が思うだろう。私もそう思った。川瀬さんも思った。
そして,昨日古賀さんも同様の質問をされた。
今日になって川瀬さんが,謎が解けたようなコメントを書いて下さった。
だが,すぐに答えを教えてくれないのも川瀬さんである。
ようやく昨日の疲れも取れてきたので,「福ちゃん」へ行く前に簡単にまとめてみる。
過渡期というのが歴史にも人間にもあって,
後から見るとよく理解出来ないことをやっていたということがある。
「なぜ,彼らはこんな訳のわからないことをしたのだろう?」
しかし,私たちだって1000年,2000年前に行けば,
その時代の思想やルールや常識の中で
たぶん同じことをしていたに違いないと思うのだ。
それが今回の「東偏5度」を通してわかったら,望外の喜びである。
(1) それぞれが独立した地域だった殷の時代(王墓・宮殿・庶民の3つの地区)
https://www.sekainorekisi.com/my_keywords/殷墟/
お墓としての「殷墟」は知っていたが,こんなにはっきりした区画(しかも,庶民の街は東偏!)で
分けられているとは思っていませんでした。
(2) 都づくりの過渡期の東偏,西偏,不定形(王としては,なんとか一番北に収まりたいが)
春秋・戦国時代は,王族だって生き延びるのは大変。孔子はそういう人たちに知恵を貸したかも。
そういう苦労の末に,一番北に陣取るということになるのですね。
(3) 王が最北に位置し,正方位の都が確立する
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※ 「福ちゃんか」から帰宅したら,川瀬さんからの回答メールが入っていました。
一応私も考えようとしていたという証拠を残しておきます。
また,川瀬さんのメールの内容は,とても大切なことだと思うので,
「夢ブログ」本文にも収録させていただきます。よろしいですよね,川瀬さん。
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『中国古代都城の設計と思想~円丘祭祀の歴史的展開』
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