柱間寸法2,45mとは,「南朝尺」で10尺のことではないか!
川瀬さんがまたまた素晴らしい資料を提供して下さいました!
福原長者原遺跡のいろいろな測定値である。
その中で私が注目したのは柱間の距離。
そこに,「あの懐かしくも悔しい思いをした数値」が載っていたからです。
「いつかこの数字に合う建築物を見つけて川瀬さんにお目に掛けたい」と
私はひそかに心の中でリベンジを誓っていました。
(川瀬さん「武蔵国分寺の塔は南朝尺で作られていない」の直後)
私はその頃,大尺と小尺について自分でグラフを描き,
その結果36cmの尺は存在していないことで納得しましたが,
「いつか1尺=24.5cmの単位で作られた建物を見つけて,九州王朝の証拠にしたい!」
と思ったのでした。まず,そのグラフをご覧に入れましょう。
続いて,本日川瀬さんが提供して下さった資料を載せます。
全体のことは,以下に載せました。
平成24年度の現地説明会資料(南門と南回廊の柱間寸法の詳細な数字と図)
http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/kyureki/_common/pdf/hakkutupdf/h24_fukubaru.pdf
柱間寸法の多くが,例の数値「245」を示していませんか?
これはつまり,九州王朝が倣った「南朝尺・・・1尺=24.5cm」の10個分です。
その単位・長さで南朝の柵封体制にふさわしい宮殿を,
自分の国に作ったという証拠ではないでしょうか!
皆さん,いかがでしょうか。
※ 単に「245」という数字を単独で扱うのでなく,
九州王朝の南朝の下の宮殿と思しき建物群に
それが使用されている単位としてお考えいただければありがたいです。
将来「地壇」と「天丘」が認められるといいと思います。
こんなすごい遺跡には,一生の内でもなかなか出会えるものではないと考えます。
(心は今すぐ飛んでいきたい気分です)
※ 川瀬さんの提供して下さった資料は,
この他にも有益な情報を含んでいました。
たとえば,国庁の方位はさすがに正方位で揃えたようですが,
郡庁まではそうもいかず,多元的古代の研究に役立つ資料と
なっていることを付け加えておきます。
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肥沼さん!
喜び過ぎて一つ見逃している。
3棟の掘立柱建物の柱間寸法はたしかに「2.45」mだ。
しかし回廊と南門はどうだろうか。
こちらは、少し異なる。
南門は「2.45」だろうが、回廊には「2.67」「2.69」など、24.5㎝の南朝尺よりも大きな数値が出てくる。
これは北朝の「29.6㎝」と南朝尺の間になる。
1尺が 「26.7」㎝とか「26.9」㎝という尺がたしかあったと記憶する。
いつの時代の尺だったろうか。
この遺跡の建物と南門・回廊は異なる時期で作られている。
最初に立てられた掘立柱建物は「24.5」㎝の尺。この時には内側の大溝で区画。
この時にも南門はすでにあったか?
ということは現在回廊になっている場所に柵程度はあったはず。
そして最後に回廊が作られる。この時の尺は「26.7」か「26.9」。この時は内側の大溝が埋められて外側の大溝が掘られる。
報告書でも遺跡は三期にわたって改造されているというが、尺で見ると二つではないでしょうか。
もっと詳細な報告書があると思うので探してみましょう。
でも
投稿: 川瀬 | 2018年9月 6日 (木) 17:59
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
「でも」のあとが気になりますが・・・。
ということは,九州王朝の時代のうちに,
単位の違う尺で2回作ったということですか?
隋に対抗して正方位にするならわかりますが,
「東偏5度」のまま違う尺を使う理由がよくわかりません。
う~ん。
投稿: 肥さん | 2018年9月 6日 (木) 18:20
川瀬さんへ
ウィキペディア「尺」にこんなのが出ていましたが,いかがでしょうか。
「日本の尺
日本には唐制が導入され、大宝元年(701年)の大宝律令で大尺・小尺を制定している。ただし異説もあり、日本には大宝令以前に高句麗から渡来した大尺より2寸長い高麗尺が普及していたので、これが大宝令の大尺とされ、唐の大尺が小尺にされたともいう。この説では、後に現れる曲尺1尺2寸の呉服尺は高麗尺に基づくものであるとする。
また、新井宏は寺院等の実測分析から高麗尺ではなく0.268mの尺が使用されていたという古韓尺説をとなえている。
なお岩田重雄は、隋代に小尺となる尺が朝鮮において5世紀中頃には26cm代に伸張し、その後約150年変化しないとし、それを新井宏が古韓尺と呼んでいると説く。
唐の大尺は現在の曲尺で9.78寸(29.63 cm)であり、それ以来ほとんど変化していないことになる。」
投稿: 肥さん | 2018年9月 6日 (木) 18:27
肥沼さんへ
不確かな資料であれこれ考えてもどうしようもありません。
奈良文化財研究所の官衙遺構データベースの福原長者原遺跡の建物データをみると、それぞれの建物の詳しいデータが載っているので、これをみて判断しましょう。
http://mokuren.nabunken.go.jp/Scripts/strieveW.exe
回廊だけ見てみました(掘立柱建物はみてください)
1:東面回廊 柱間距離 2.15~2.60メートル。
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m121190-94056/88638.jpg
2:南面回廊(南面西回廊) 柱間距離 2.15~2.60
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m121190-94056/88636.jpg
3:西面回廊 柱間距離 2.15~2.60
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m121190-94056/88637.jpg
おそらく平均すれば2.45m付近だと思います。
ちなみに正殿をみると、身舎桁行柱間寸法平均値 2.473
ただ気になるデータが。それは方位。
回廊は:3゜21´02″E
正殿は:4゜52´43″E
測定誤差もありますから、おおむね東偏5度でいいのかな?
投稿: 川瀬 | 2018年9月 6日 (木) 22:09