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2018年9月16日 (日)

古代建築物の南北方位軸のぶれ(「洛中洛外日記」より)

古賀さんが「洛中洛外日記」で,私たちの進めている東偏建物や東偏都市づくりについて,
前向きに触れて下さっているので,転載させていただきます。

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古賀達也の洛中洛外日記

第1747話 2018/09/06
古代建築物の南北方位軸のぶれ

 先日の東京講演会(『発見された倭京』出版記念)の終了後、後援していただいた
東京古田会・多元的古代研究会の役員の皆さんと夕食をご一緒し、親睦を深めました。
講師の山田春廣さん・肥沼孝治さんもご同席いただき、
講演冒頭で披露された手品のタネあかしを肥沼さんにしていただいたりしました。

 懇親会散会後も喫茶店で肥沼さん和田さん(多元的古代研究会・事務局長)と
研究テーマなどについて情報交換しました。
特に肥沼さんが精力的に調査されている古代建築物や官衙・道路の「南北軸の東偏」現象
について詳しく教えていただきました。

 古代建築には南北軸が正方位のものや西偏や東偏するものがあることが知られており、
7世紀初頭頃から九州王朝の太宰府条坊都市を筆頭に南北軸が正方位の遺構が出現し、
その設計思想は前期難波宮の副都造営に引き継がれています。
他方、西偏や東偏するものもあり、都市の設計思想の変化(差異)が想定されます。
肥沼さんはこの東偏する遺跡が東山道沿いに分布していることを発見され、
その分布図をご自身のブログ(肥さんの夢ブログ)に掲載されています。
人気のブログですので、ぜひご覧ください。

 肥沼さんの見解では東偏は中国南朝の影響ではないかとのことで、
南朝の都城の方位軸の精査を進められています。
この仮説が妥当であれば、東偏した遺跡は少なくとも5~6世紀まで遡る可能性があり、
それは正方位や西偏の古代建築物や遺構よりも古いことになり、
古代遺跡の相対編年にも使用できそうです。

 わたしからは土器編年による遺構相対年代のクロスチェックを提案しました。
土器編年がそれらの相対編年に対応していれば、
学問的にも信頼性の高い相対編年が可能となるからです。
このように肥沼さんの研究は、その新規性や古代史学に貢献する進歩性の両面で優れたものです。
期待を込めて研究の進展を注目したいと思います。

 最後に、肥沼さんから『よみがえる古代武蔵国府』(府中郷土の森博物館発行)という
オールカラーの小冊子をいただきました。
これがなかなかの優れもので、当地の遺跡や遺物、その解説がカラー写真で載せられています。
これからしっかりと読みます。

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「東偏5度の寺院・街作り」の現段階をリンクしておきます。
古いタイプの国分寺(塔が回廊の中)や廃寺が狙い目です。
ただし,真北と磁北の2つが混乱している報告書もあるので注意が必要。
(よくミスして怒られている私が言うのですから間違いない!)

東偏5度の寺院・街作り

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

古賀さんのブログのこの記述
>肥沼さんはこの東偏する遺跡が東山道沿いに分布していることを発見され、
その分布図をご自身のブログ(肥さんの夢ブログ)に掲載されています。

 ものすごく不正確だと思いますが。これでよいのかな?
 たしかに東山道沿いが一番濃密だが、それは確認した遺跡の範囲でそうなるだけで、すでに東山道だけではなく、東海道も、北陸道もそして九州にも出ているのだが。
 肥沼さんは上のような説明をしたのですか?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ものすごく不正確だと思いますが。これでよいのかな?
 たしかに東山道沿いが一番濃密だが、それは確認した遺跡の範囲でそうなるだけで、すでに東山道だけではなく、東海道も、北陸道もそして九州にも出ているのだが。
 肥沼さんは上のような説明をしたのですか?

違いますよ。西村さんや山田さんの考えられた九州王朝の街道沿いに
たくさんの遺跡が出てきていると説明したつもりです。
あの地図では,東山道沿いが濃密に見えるので,古賀さんはそうとらえたのかも。
ついでに,東北地方の遺跡の情報も付け加えました。

一応,以下のようなメールを古賀さんに送りました。

「古賀さんへ
東京の肥沼です。

方位に着目すると歴史が見えて来るという内容を
「洛中洛外日記」に掲載していただき,ありがとうございます。

これで少しは研究の視点を付け加えることができたと思うのですが,
濃密に見える九州王朝の東山道だけでなく,東海道も多いですし,
北海道や南海道にも候補が出てきていますので,ご注目下さい。
あの時点では,東山道10,東海道10,北海道3,南海道1だったと思います。
西村さん,山田さんの研究とも重なり合っているとがわかると思います」
さらに数を増やしていこうと思いますが,「夢ブログ」で書きましたが,

東偏でいうと,多賀城,多賀城廃寺,胆沢城,志波城にも痕跡があり,
大和王朝がこれらに拠点を置くかなり前から,九州王朝が行っているようです。
方位による遺跡の再検討は,私たちに想像以上の力を与えてくれそうです。

肥沼さんへ

 古賀発言にはもう一つ疑問点があります。
>わたしからは土器編年による遺構相対年代のクロスチェックを提案しました。
土器編年がそれらの相対編年に対応していれば、
学問的にも信頼性の高い相対編年が可能となるからです。

 これに肥沼さんはどうお答えになったのでしょうか。
 というのもこれはすごく難しいことなのです。
1:東偏・正方位・西偏の掘立柱建物群の相対的な年代確定。これはそれぞれが互いに遺構を切りあっていれば前後関係はわかります。だがそれぞれの建物群がどの年代にあたるかは、掘立柱を立てる際に、穴の底に土止めみたいにして瓦や土器の破片を詰めたことがあきらかなら瓦や土器で年代を確定することはできます。でも柱を建てた際の埋設物なのか、その建物を廃棄する際に柱を抜いたときに穴に混入したのか、さらにはずっと後世に残っていた穴に混入したのかを区別するのはとても難しいことです。
2:あとそれぞれの掘立柱建物群の年代を明らかにする方法としては、今やっている、掘立柱建物を建てる際に、その前にあった竪穴住居を壊している場合、その住居から出てくる土器の相対編年で、住居の廃絶年代が推定でき、結果としてその後に建った掘立柱建物の創設時期が推定できる。

 こうやって東偏・正方位・西偏の掘立柱建物群がどの年代にあたるのかを土器の相対編年を駆使して確認し、その前後関係を明らかにすることは可能ですが、以上二つの場合がどれだけあるか。府中の遺跡を見ていてもあまりないというのが実感です。
 そして発掘者は建物の方位の違いにほとんど注意していないので、全体としての建物群の年代を、建物が壊した竪穴住居から出た土器の年代で推定はしていても、個々の建物についてこの推定をしていないことが多いことは報告書を読んでいるとわかることです。では建物一つ一つについて、この作業を報告書を元にできるのか?手は付けてはいますが、難しそうです。

3:さらにもっと難しいことがあります。土器編年が違っている可能性があるのです。古墳時代のです。関東の古墳時代の始まりは、近畿地方で古墳が発生したと考えたうえで、それから50年とか100年あとと推定されているはずです。要するに中央から地方に文化が伝搬するのに一定の年数がかかるという常識。でもこれは瓦の問題でも論じましたが、権力が全国的に一律に一定の文化を広めたと考えると、中央と地方との年代差はあまりないことになります。年代差があると考えたから、素弁蓮華文軒丸瓦の場合では、近畿が始まりとして、中部地方はその50年後、関東地方や九州地方はその100年後などの年代差が設定されてしまいました。これと同じことが古墳時代の土師器や須恵器にも言えるのではないかということです。
 同じ東国地域の中の東偏・正方位・西偏建物群の相対的な年代差は土器で出せても、それを全国の中に位置づけることができるのか。
 ここについては私は極めて懐疑的でいますから。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  これに肥沼さんはどうお答えになったのでしょうか。

「私は方位のことで精一杯なので,皆さんでやってもなかなか難しいという
土器編年までは,とても手が出せないと思います」と答えたと思います。

古賀さんは「提案しました」と言っているだけですよね。

肥沼さんへ
>「私は方位のことで精一杯なので,皆さんでやってもなかなか難しいという
土器編年までは,とても手が出せないと思います」と答えたと思います。

 当面はこの対応で良いと思います。
 ただ今やっている府中の街並みの中の東偏建物の年代測定を終えてみたとき、土師器と須恵器の編年に手をつけないとどうにもならなくなるな、とは思っています。
 理由は、先のコメントに書いたとおりです。

 先の質問は、古賀さんは、こうした考古学の歪みについて認識されているのかどうかという疑問が背景にありました。

肥沼さんへ

 現在のところの「東偏5度の寺院と街並み」図を見ていると、見事に近畿天皇家の固有の領域がすっぽり抜けていることがわかりますね。

 これが事実としてそうなのか。
 これだと近畿天皇家は九州王朝から半ば独立となる)。

 それとも、単にまだ東偏建物を見つけていないのか。

 今後のお楽しみですね。

追伸
 
 この図には、摂津の伊丹廃寺が抜けていますね。回廊の一部と築地は東偏5度。他は東偏10度だけど。
 この摂津を近畿天皇家の固有の領土とみるかどうかは微妙ですが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

瓦について言うと,741年の「国分寺建立の詔」を超えられず,
50年以上の狂い(素弁を平安以降に考えたり)が生じていて,
ほとんど正しい報告が期待できません。
なので,今やるのは「労多くして,得るもの少なし」のような気がします。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  現在のところの「東偏5度の寺院と街並み」図を見ていると、見事に近畿天皇家の固有の領域がすっぽり抜けていることがわかりますね。
 これが事実としてそうなのか。
 これだと近畿天皇家は九州王朝から半ば独立となる)。
 それとも、単にまだ東偏建物を見つけていないのか。
 今後のお楽しみですね。

奈良文化財研究所のデータベースは,奈良県の古代寺院が十数件なのでしょうか。
これでは調べてもなあ・・・と思っています。(いくつかは見ました)
それより他の県の「東偏」を見つける方がいいと,今は思っています。

〉   この図には、摂津の伊丹廃寺が抜けていますね。回廊の一部と築地は東偏5度。他は東偏10度だけど。
 この摂津を近畿天皇家の固有の領土とみるかどうかは微妙ですが。

それは付け加えておきたいです。ありがとうございます。

肥沼さんへ
>奈良文化財研究所のデータベースは,奈良県の古代寺院が十数件なのでしょうか。
これでは調べてもなあ・・・と思っています。(いくつかは見ました)

 意味が分かりません。古代寺院が10数件。なぜ検証する意味がないのでしょう。
 そして検証するのは古代寺院だけではありません。古代官衙遺構も調べないと。

>なので,今やるのは「労多くして,得るもの少なし」のような気がします。
 これは土器編年の見直しのことですね。
 瓦も全部近畿を基準にして、そこから遠いところは50年とか100年ずらしていることは石田さんの本をみるとわかります。
 これを全部近畿と同時、つまり全国一斉に一律仕様で寺院が作られたと考えると良いというのが服部さんの提案。これは賛成。
 あとは中部・関東・中国四国・九州の素弁瓦を持つ寺院が、定説の年代では間違いだという証拠だ。信濃の寺院で一つそれを見つけた。柵と考えられる穴から見つかった丸太の残存物。7世紀末との通説を覆し、6世紀末から7世紀初と判定されている。
 こうした例をたくさん見つけると瓦編年は変えられる。

 土器編年も同じ。
 私は昔勉強したとき、関東の古墳文化の始まりは近畿より100年後に設定されたことをしった。そして近所の円墳には墳頂の木棺の周りになんと弥生時代末の壺が円筒埴輪のように並べて置かれた。この壺の年代だとこの古墳の年代は近畿と同じで3世紀末から4世紀初。報告者は通説書き換えを恐れて、壷が50年から100年伝世したとして、通説通りの4世紀末とした。
 こうした通説を否定する資料を集めれば関東における古墳時代の始まり年代は修正でき、土師器や須恵器編年でも、近畿を中心として関東に伝わるのに一定の年代をいれて編年していることが確認できれば、これも全国一斉に同じ仕様の土器が普及したと訂正すればすむことです。
 意外に土器編年の修正は難しくないと思っています。
 要するに、瓦や土器の編年の前提になっている、文化普及の時間差を見つけてそれを再検証すれば済むのではないかということです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 >奈良文化財研究所のデータベースは,奈良県の古代寺院が十数件なのでしょうか。
これでは調べてもなあ・・・と思っています。(いくつかは見ました)

 意味が分かりません。古代寺院が10数件。なぜ検証する意味がないのでしょう。
 そして検証するのは古代寺院だけではありません。古代官衙遺構も調べないと。

では,明日からしばらく,奈良県内の古代寺院・官衙遺跡で
やってみることにしますので,よろしくお願いいたします。

〉 信濃の寺院で一つそれを見つけた。柵と考えられる穴から見つかった丸太の残存物。7世紀末との通説を覆し、6世紀末から7世紀初と判定されている。
こうした例をたくさん見つけると瓦編年は変えられる。

〉 土器編年も同じ。

〉  要するに、瓦や土器の編年の前提になっている、
文化普及の時間差を見つけてそれを再検証すれば済むのではないかということです。

なるほど。
発見した例を今度教えてください。

奈良県の古代寺院が10数件。
おかしいとおもっていま検索しました。少なくとも120件くらい。
 どうやったら10数件になる?
 もしかしたら「検索文字列」に「奈良県」と入れて最初に出てきた画面に10数件だから、それで終わりと勘違いでしょうかね。
 「下へ」と上に出ているのだから、まだまだ続きがある。

 いろんな時代の寺院が100件もあるわけだから。かなり時間がかかります。じっくり取り組んでみてください。

肥沼さんへ

 素弁蓮華文軒丸瓦の寺の通説を覆す例。

 長野県安曇野市明科(あかしな)中川手にある明科遺跡群の中の明科廃寺。
 これまで須恵器と瓦(素弁蓮華文軒丸瓦)から7世紀末(7世紀第三四半期)とされてきた寺院。
 その一部とみられる掘立柵列の柱穴から採取された炭化物の分析。
 この結果は6世紀中ごろから7世紀前半。

 長野県は大和から東にはるかに離れた地ということで、石田氏は同じ素弁瓦でもこの地域では7世紀初ではなく7世紀末だとしていた。つまり50年ほど伝搬に時間がかかったと判断していた。これが通説。
 これを覆す科学的資料が出てきたということ。

 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/19416

ここからダウンロードできる。
 明科遺跡群明科廃寺4

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  もしかしたら「検索文字列」に「奈良県」と入れて最初に出てきた画面に10数件だから、それで終わりと勘違いでしょうかね。
 「下へ」と上に出ているのだから、まだまだ続きがある。

そうだったんですか!検索のやり方がよくわかっていなかったようです。

〉  いろんな時代の寺院が100件もあるわけだから。かなり時間がかかります。じっくり取り組んでみてください。

そうですね。それは,すぐに全部というわけにはいきません。
ぼちぼちいきましょう。

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