1500年前の「市原市の有力者」
金堂院と塔を再建するには,相当のお金が必要である。
それを出せる人は,すごい人(あるいはその子孫)ではないかと思いつき(またか),
検索していたら,ありました。
~稲荷台1号墳の王賜銘鉄剣~
1500年前の地元の有力者の子孫が,400年たった1100年前も栄えていて,
平安時代の末に,地元の上総国分寺を再建したのではないかという,
壮大な思い付きである。
「稲荷台1号墳出土の王賜銘鉄剣」
https://ja.wikipedia.org/wiki/鉄剣・鉄刀銘文#稲荷台1号墳出土の王賜銘鉄剣
「そんな昔のことはわからないよ。
肥さんの大ぼらだよ。」と言うなかれ。
上総国分寺と稲荷台1号墳の距離は,約2キロ。
これは武蔵国分寺(金堂以下の主要伽藍)と
府中熊野神社古墳のそれとほぼ同じなのである。
(両方とも,西偏7度で同じ方位)
※ 府中熊野神社古墳は,7世紀中頃作られたと考えられています。
場所は離れていますが,9世紀半ばの845年に,
武蔵国の男衾郡の前の大領(長官)の壬生吉志福正が,塔の再建を願い出て,
許可されたことが『続日本後紀』に書かれているそうです。
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