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2018年9月27日 (木)

久米官衙遺跡の謎

例の『斉明天皇の石湯行宮か~久米官衙遺跡群』を読んでいるのだが,
久米官衙遺跡には,九州王朝と大和王朝の2つの政権が絡んでいるのか,
いろいろな点が絡み合ってすっきりいかない。

「久米評」の土器が出ていたり,全体としては東偏の遺跡なので,
九州王朝が最初に作ったものだというのは疑いないと思うのだが,

(1) 正方位 → 東偏 → 正方位 

(2) 1尺の長さが,28.8cm・30.4cm・29.6cmといろいろ。
ちなみに,8世紀後半の正倉院は,29.6cmらしいです。

(3) さまざまな種類の建物(東偏・正方位・西偏)があり,それぞれの関係が不明。

など,いろいろ疑問点が山積の遺跡なのだ。
(全面発掘でないのも一因)

一応,資料として,以下の2つをアップしておく。
皆さんもこの謎解きに挑戦してみませんか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

A 6世紀の初めから焼く1世紀の間の「尺の変遷」

262

B 正殿のサイズ

263

私は北端の51.5mを100尺(1尺=28.5cm)として考えた方が,
「99」「179」「49」などの端数を生まなくていいと思っていますが。

51.5m÷28.5cm=180.7尺(約180尺)
28.5m÷28.5cm=100尺
14.2m÷28.5cm=49.8尺(約50尺)
17.3m÷28.5cm=60.7尺(約60尺)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ
〉北端の51.5mを100尺と考えた方が「99」「179」「49」などの端数を生まなくていいと考えます。

これは「どれくらいの長さの尺度が用いられたとするとつじつまが合うか」という考え方と同じです。法隆寺の実測値から逆算した竹島卓一の“高麗尺”35.970cmを認める立場ですね。

 この遺跡状況。
 発掘者は遺跡の状況を取り違えていると思う。
 政庁は、正方位から始まったと言うが、最初は西偏だ。政庁の「正殿のサイズ」という図をよく見てほしい。
 北辺が西の方でわずかに南に傾いている。この塀と一体の建物もそうだ。同じく南辺でも西の方がわずかに南に傾き、塀と一体の建物も同じだ。
 奈良文化財研究所のデータベースにある「遺構配置図政庁」を見ると、東辺の下部に、その少し東側に続く方位の異なる柵の柱穴がある。その南部は掘られていないので無視されている。
 この柵の柱穴に注目すれば、最初の政庁は正方形だが西偏となる。
 この最初の西偏の区画を生かして、中央の広場に南北棟の正方位の脇殿をつくり(西側にも同じものがあった可能性が高い)、東辺(とおそらく西辺)の柵列を正方位に作り変えたのではないだろうか。
 したがってⅡ期目は、脇殿と東辺西辺は正方位だが、北辺と南辺さらにそこに一体の南北二つの殿舎は西偏という形だと思う。

 遺跡状況をちゃんと把握しないで恣意的に解釈しての尺の復元。
 この遺跡を掘った人のいい加減さが良くわかると思う。
 このいい加減な遺跡復元に依拠して使用尺を考察しても仕方がないと思います。まずは遺跡状況の正確な把握と復元が先ですね。


 掘立柱建物の建設年代は、偶然にも柱を建てる際に地盤固めとして埋められた土器でもないかぎり明らかにできず(これも柱を抜いたあと混入した土器との区別をするのは難しい)、通常は建物が先行する竪穴住居を壊していて、住居の床面から出土した土器で、住居が廃絶した時期がわかる場合のみ、掘立柱建物の建設年代は推定できる。
 そうではないときは建物の建設年代は特定できない。
 だから東偏・西偏・正方位の建物の相互関係は、建物相互が遺構を切りあっていない限りわからない。
 という考古学の年代判定法の限界を意識して発掘報告書や、このような考察の書を読む必要があると思います。

 遺構を見ると
 東側の西偏の南北柵列の柱穴を東偏の東西棟建物が切っている。
 つまり西偏よりも東偏が新しい。
 中央で南北棟の正方位の建物の柱穴を東偏の東西棟建物が切っている。
 つまり正方位よりも東偏が新しい。
 また南辺で、西偏の東西棟の建物の柱穴を東偏の南北棟建物が切っている。
 ここでも西偏よりも東偏が新しい。
 では正方位と西偏の関係はどうか。
 西偏のたてものと正方位の建物が切りあっている場所がない。
 だが西偏の東側の南北柵列を正方位に作り変えているのだから、
 西偏より正方位のほうが新しい。

 以上の建物の切りあい関係を元に考えてみれば、政庁の建物は

 西偏⇒正方位⇒東偏 となるはずだ。
 

追伸
図面のありかをリンクするのを忘れました。
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102827-77603/up-seicho.jpg

「遺構配置図(政庁)」です。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 これは「どれくらいの長さの尺度が用いられたとするとつじつまが合うか」という考え方と同じです。法隆寺の実測値から逆算した竹島卓一の“高麗尺”35.970cmを認める立場ですね。

そんな大それたことは考えていません。
ただ「99」「179」「49」という半端な設計図で,
こんな大規模な建設を進めるのかな?
というのが私の疑問です。

私は,著者が「8世紀後半の正倉院の1尺=28.8cmに魅力を感じて
引っ張られたために端数をたくさんだしてしまったのではないか」と言いたいのです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 以上の建物の切りあい関係を元に考えてみれば、政庁の建物は
 西偏⇒正方位⇒東偏 となるはずだ。

ということは,もしそれぞれを立てた人(政権)は何になるのでしょうか。
それともこの正殿からではわからないということなのでしょうか。

肥沼さんへ

>〉 以上の建物の切りあい関係を元に考えてみれば、政庁の建物は
 西偏⇒正方位⇒東偏 となるはずだ。

ということは,もしそれぞれを立てた人(政権)は何になるのでしょうか。
それともこの正殿からではわからないということなのでしょうか。

 この政庁の時代がいつかが問題です。
 おそらくそれは、出土した土器で判断されているのでしょうが。奈文研のデータベースの「久米官衙」の項には「7世紀前葉~9世紀末葉から10世紀初めには消滅」とあるので、一番最初に作られたと判断されている政庁は7世紀前葉なのでしょう。
 このおそらく土器編年による年代が正しいとしたら、これはたぶん正方位の政庁の年代かと。
 とするとその前の西偏は6世紀末にまで遡るかもしれませんね。
 これは発掘報告書で詳しく出土土器などの判断を確認しないと確定はできません。
 奈文研の当該サイトでは、墨書土器出土とあるので、そこになにか資料があったかも。
 ともかく7世紀前半なら「郡」ではなく「評」の時代だからこの役所群を「久米評」官衙としたのだと思います。
 西偏・正方位・東偏それぞれがいつで誰が建てたかは確定できませんが、7世紀前半という今の年代比定が正しいのならば、九州王朝が最初に建てたことは確かです。
 そしてこの官衙遺跡が続いた時代が「9世紀末から10世紀初まで」ということなので、近畿天皇家時代になって建てられたものもあることは確かです。
 ただしこれは九州王朝説に立った解釈です。
 近畿天皇家一元史観に立てば、当然近畿天皇家です。

肥さんへ

>ただ「99」「179」「49」という半端な設計図で,
 こんな大規模な建設を進めるのかな?
 というのが私の疑問です。
 私は,著者が「8世紀後半の正倉院の1尺=28.8cmに魅力を感じて
 引っ張られたために端数をたくさんだしてしまったのではないか」と言いたいのです。

ということなら、そう書いて頂けばわかりやすかったと思います。
「北端の51.5mを100尺と考えた方が「99」「179」「49」などの端数を生まなくていいと考えます。」と書いたのは肥さんの意見と受け止められますので、そうではないということであればこれは蛇足ですね(誤解を生みます)。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ただしこれは九州王朝説に立った解釈です。
 近畿天皇家一元史観に立てば、当然近畿天皇家です。

私は九州王朝説に立って考えていたのですが,
川瀬さんはそうではなかったのですか?

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ということなら、そう書いて頂けばわかりやすかったと思います。
「北端の51.5mを100尺と考えた方が「99」「179」「49」などの端数を生まなくていいと考えます。」
と書いたのは肥さんの意見と受け止められますので、
そうではないということであればこれは蛇足ですね(誤解を生みます)。

私としては,わかりやすくしたつもりだったのですが,蛇足でしたかね。


肥沼さんへ
>〉  ただしこれは九州王朝説に立った解釈です。
 近畿天皇家一元史観に立てば、当然近畿天皇家です。

>私は九州王朝説に立って考えていたのですが,
川瀬さんはそうではなかったのですか?

 何を寝ぼけたことを言っているのですか。私が九州王朝説に立っていることは自明なこと。
 「近畿天皇家一元史観に立っている人から見れば、7世紀前半から9世紀末までの政庁遺跡なら近畿天皇家のものと当然考えます。」と言いたいだけですよ。

 ただし報告書を読むと発掘者も困惑しているようです。
 というのは7世紀前半に政庁がこの地にあったことが確定しました。しかしその少し西の場所から、「久米評」と線刻された土器がでていたので、「評制は7世紀後半の制度だ」と考えている通説派からすると、7世紀前半、しかもそれ以前の遺構と考えられる(西偏のものです)遺構もあるので、この政庁跡を何者と判断できなくなっているのです。
 通説派にとって、国々に国府が置かれ、郡衙が置かれたのは大化改新詔以後なので、7世紀後半の時期の評の政庁なら理解できるが、これに遡る政庁があること自体が驚愕なのです。いったい天皇家以外にこの地に大規模な官衙を営むことができたものがいるのか?地方豪族単独でそんなことができるのか?
 こういう意味のことが報告書にはありました。
 そして同時にこの久米官衙からは8世紀、つまり奈良時代の政庁と思われる遺構が出てこないことも、不思議で解釈できないことになっています。
 やはり全国を統治したのは近畿天皇家だけだというイデオロギーでは理解できない事実が、地下からは出ているのですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  何を寝ぼけたことを言っているのですか。私が九州王朝説に立っていることは自明なこと。
 「近畿天皇家一元史観に立っている人から見れば、7世紀前半から9世紀末までの政庁遺跡なら近畿天皇家のものと当然考えます。」と言いたいだけですよ。

川瀬さんの文章が,「ただしこれは九州王朝説に立った解釈です。
 近畿天皇家一元史観に立てば、当然近畿天皇家です。」で終わっているので,
その先まで書いてほしかったということです。

〉  やはり全国を統治したのは近畿天皇家だけだというイデオロギーでは理解できない事実が、
地下からは出ているのですね。

やはり文献とともに,国府・国分寺の謎解きでも,
地下の遺跡・遺物に着目したことは,正解でしたね。

追伸

 一つ書き忘れました。
 久米官衙の政庁あとを囲む塀の寸法を使って使用尺を特定するのは無理です。理由はこの政庁跡は東半分ほどしかまだ掘っていない。しかも正方位と言っているが、遺構を見れば、最初に西偏の政庁ができ、のちにそれを改造して正方位の政庁にしている。この事実を無視した復元では間違いが多く、したがって出てきた数字に信憑性はない。
 同じく久米官衙の「回廊状遺構」でも、この遺構は何度かの調査にわたって掘られており、しかも報告書に詳しく書いてないので事情が不明だが、何か所か測量ミスがあって、報告書の図面をつなげることができない。だから区画溝の大きさも推定にすぎず、数字に信憑性がない。

 どうしても使用尺を検討したいのならば、建物一棟丸ごと掘り出されている箇所を選び、その柱間寸法を元にやってみてください。西偏時代・正方位時代・東偏時代で尺が異なる可能性がありますので、向きの異なる建物をいくつか選び、複数の尺を試してみることです。
 報告書では東偏が7世紀後半、正方位が七世紀前半、西偏がそれ以前もしくは8世紀と時代を考えているようです。根拠は政庁の東偏建物の柱穴から出てきた須恵器が7世紀後半に属するものだったから。これを根拠に、東偏建物の前が正方位なので、7世紀前半とし、西偏はその前のものと東偏の後のものがあると考えたようです。
 九州王朝時代の建物だから=南朝尺=1尺が24.5㎝。という思い込みは捨ててください。
 肥沼さんは、以前、「多元的国分寺研究サークル」で軍印の尺度が問題になった際に、尺度について次のような記述をされました。
 〖取りざたされる尺度・単位〗

1.商尺・殷尺(17.00㎝)、骨尺(南京博物館蔵、伝安陽県安陽(殷墟)出土)。

2.戦国尺(23.00㎝)、銅尺(北京歴史博物館蔵)ほか。

3.前漢尺(23.30㎝)、 牙尺(北京歴史博物館蔵)ほか。

4.後漢尺(23.09㎝)、漢委奴国王印(印制「方一寸」)。銅斛尺(標準器「新嘉量」のますの深さ)と同じ。王莽貨布尺(貨布四枚)。

5.魏尺・正始弩尺(24.30㎝)、弩桟に刻されたもの。

6.晋後尺(24.50㎝)、元帝後に江南で用いられた尺。黄鐘管長の10/9(19.61㎝)の1.25倍、黄鐘管長の10/9(19.61㎝)はこの8割。

7.隋・唐小尺(24.69㎝)、残骨尺(北京歴史博物館蔵)。唐尺29.63㎝の5/6。中国南朝滅亡時に江南で用いられていたもの。

8.“古韓尺”(26.7㎝前後)、唐尺29.63㎝の9割前後、“高麗尺”の3/4倍前後。

9.梁尺(24.90㎝)、[流/金]金彫鳳銅矩尺(日本白鶴美術館蔵)。

10.開皇官尺・唐尺(29.63㎝)、隋・唐小尺(滅亡時の南朝尺)の1.2倍(唐小尺が唐尺の起源かどうかは別問題)。

11.正倉院撥鏤尺(29.7㎝)、正倉院所蔵の撥鏤尺の長さ。

12.“奈良尺”(29.4848㎝)、0.973×曲尺。

13.曲尺(10/33m≒30.3㎝)、いわゆる「尺(かねじゃく)」です。

14.“関野貞高麗尺”(35.64㎝)、正倉院撥鏤尺(29.7㎝)の1.2倍。

15.“浅野清高麗尺”(35.9㎝)、法隆寺の金堂中央一間を「九尺」と推定して算出。

16.“竹島卓一高麗尺”(35.97㎝)、法隆寺の実測値から逆算(ご都合主義)。

17.薬師寺基準単位(36.8561㎝)、“奈良尺”(29.4848㎝)の1.25倍。大岡實建築研究所が薬師寺金堂の復元に際して見いだした単位。

 この中の5・6・7・9が南朝尺に属します。
 すくなくともこの四種類の尺で試してみることが大事だと思います。
 そしてもう一点、もしこの遺構が7世紀後半の遺構ならば、九州王朝が隋に倣って10の隋・唐尺(いわゆる大尺)を採用した可能性もあるので、これも試してみる必要があると思います。

 最後に建物の柱間で使用尺を検討するときの注意。
 発掘報告書の図面でまず確認する。その際に、掘方の中のどこを柱穴とするかで発掘者の恣意がはいりますので、自分で柱穴の位置を検討すること。そうして報告書図面の誤差をなるべく修正する。
 この作業をして初めて、使用尺を検討できます。
 そして割ってみて整数になる数値を確認して、遺構の図をみて、この数値と発掘報告書の数値との差が、遺構から見て妥当な誤差と見ることができるかどうか判断する。

 以上のような作業をやって初めて使用尺の検討ができるのだとおもいます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 以上のような作業をやって初めて使用尺の検討ができるのだとおもいます。

では,今回の場合は,「使用尺」の検討は無理ということですね。残念ですが・・・。

その後の川瀬さんの情報

(1)  政庁の東辺だけは北東の角と南東の角がちゃんと掘れていますからここは測定できます。
 またこの東辺に付属した建物も全部掘れているのでこれも測定できます。
 さらにその東側の南北棟の脇殿も全部掘れているのでこれも測定できます。
 これで正方位の建物三つが測定可能です。
 同じように東偏なら、政庁遺構の中で、政庁が廃絶してからの南北棟がいくつも完全に掘られていますから、東偏の建物もここでいつくか確保できます。
 西偏は政庁あとなら、政庁南辺と一体の建物が完全に掘れていますし、もしかしたら政庁より古いかもしれない西偏建物が、政庁遺構の西側で一棟見つかっています。
 これらならちゃんと掘られていますから使用尺を測定かのうですよ。

(2) 訂正
 遺構図で確認しました。
 政庁遺構の東偏は東南の角が掘られていないので、正確な長さはわかりません。
 これは測定候補から外してください。

(3) 追伸2
 報告書で確認してみると、「回廊状遺構」の中にもいくつか完全に掘られた箇所がありました。
 西辺と南辺はそれぞれの角が完全に掘られているので、長さが確定しています。
 また南辺の中央にある門(八脚門)も完全に掘られているので大きさは詳しくわかっています。

 なお北東の角は後世の開墾で完全に失われているので、北辺と東辺は推定値しか出せません。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  肥沼さんは、以前、「多元的国分寺研究サークル」で軍印の尺度が問題になった際に、尺度について次のような記述をされました。
 〖取りざたされる尺度・単位〗

これは,山田さんのものだと思います。
私は「取りざたされる」というような表現をあまり使わないと思いますので…。

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