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2018年8月 4日 (土)

暑い夏を「熱い夏」へ~「国衙と郡衙の連絡路」という観点

「武蔵国分寺参道口」を意識してきたので,逆にそれに目を奪われていた。
また同時に「国分尼寺」へも至る道なので,ますますそれに拍車をかけた。(。>0<。)

これは現代ではなく,1300年以上前の歴史の話なのだ。
時に狼煙でインターネット通信のようなことをやるとはいえ,
やはり国衙と郡衙の公文書のやりとりなどは,道を通して伝えるしかない。
それに早く気が付くべきであった。

チャンスはあった。なぜ九州王朝は,武蔵国分寺への参道口まで用意しながら,
国衙への道は作らなかったのだろうか?
いくら政教一致の時代とはいえ,これでは宗教の重視し過ぎではないか?
そう思いついたら,国衙と郡衙は連絡を取り合っていたのではないか?
という観点も出てきたに違いないのである。

しかし,「参道口」に目を奪われるくらいだから,やはり私は「素人」なのである。
やはり,基本の「発掘調査書」の精査に勝るものはない。その点,川瀬さんは「プロ」なのだ。
(145次発掘などの精査から,国衙の一部らしきものを見出された。
形からいうと,国庁でもおかしくない。僧寺・尼寺にも隣接し,正倉群までも武蔵路を挟んで数百m!)

せっかくのこのチャンスを,41.1℃の熱中症のただの暑い夏に終わらせてはならない。
私の還暦の誕生日もあるこの8月を,ぜひ「熱い夏」にしよう!

そして,もう忘れていると思うが,ぜひおめでたい「還パ」を迎えたいものだ。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 国府・国庁は古代道路の結節点(交差点)にあるという発想。この発想そのものは悪くないのです。出雲国府などは真ん中に交差点がありますしどうもこれは国府に先行してあったようですから。また周防国府もその真ん中を東西に山陽道が貫通し、国庁の南で北進して国庁を東西二つにわけ、国庁の北でまた西進するという例もありますから。
 だから国府の真ん中に十字路があるというのは、歴史地理学で国府を探したときの、当初手掛かりとなっていたとは例の木下さんの『国府』に書かれていたことです。
 だからこのことが頭にあって、発掘調査の145次の国庁と思われる遺跡の場所を確認したとき、そのすぐ北側を走る、現代の東八道路の建設時に掘った発掘区域を古代道路と勘違いしてしまったのでしょう。「ありゃ、国庁の北側に十字路がある」と。
 発掘報告書の図示の仕方に注意して読めばこうした勘違いは起きないのですが、国府には十字路があるという頭で先入観で見ているから起きた勘違いだと思います。

 あと十字路の存在の可能性はあります。
 つまり現代の拝島道や横街道(学園通り)が古代からそのままずっとここにあったと考えたときは、現代の道を発掘する機会はあまりありませんから、この現代の道のすぐ下に埋まっている古代の道が出現することはあまりありません。
 したがって国庁の北か南に東西に走る古代道があった可能性は残ります。
 ただし古代からずっと現代まで道が同じ場所にあったとすると、その両側には古代から現代までの遺跡が存在するはずですので、この二つの東西道路の両側にどんな遺跡があるか確認してみることは無意味ではないと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  発掘報告書の図示の仕方に注意して読めばこうした勘違いは起きないのですが、国府には十字路があるという頭で先入観で見ているから起きた勘違いだと思います。

木下良さんの『国府』を読み,「周防国府」にまで行った私は,相当な先入観の持ち主ですね。
といっても,自慢にはなりませんが・・・。

〉  あと十字路の存在の可能性はあります。
 つまり現代の拝島道や横街道(学園通り)が古代からそのままずっとここにあったと考えたときは、現代の道を発掘する機会はあまりありませんから、この現代の道のすぐ下に埋まっている古代の道が出現することはあまりありません。
 したがって国庁の北か南に東西に走る古代道があった可能性は残ります。
 ただし古代からずっと現代まで道が同じ場所にあったとすると、その両側には古代から現代までの遺跡が存在するはずですので、この二つの東西道路の両側にどんな遺跡があるか確認してみることは無意味ではないと思います。

そうなんですよね。発掘の難しいところは,「現行の土地・建物があるところは,掘ってくれない」ということ。
何か大規模な開発が行われるとか,作り変えるとかで,突然チャンスがやってくる。
その機会を逃さず掘るわけですが,なかなか知りたいところを知ることが難しい。
そういう意味では,第384図で多くの発掘調査を1枚にまとめてくれたのは,素晴らしい企画でした。

となりの国立市(こちらも「学園通り」という名前で,拝島道が続いています)に何かないかなと思って,
検索してみたら,南の方(谷保地区)になりますが梅林古墳というものが出ていました。
府中熊野神社古墳と類似して,石室が切石で作られています。(熊野神社古墳の親戚かな?)
一市だけでなく,隣りの市の遺跡も大切だと思いました。

梅林古墳(下谷保10号墳)

http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/about/about1/about2/1465447523213.html

興味深いことに,熊野神社古墳も梅林古墳も「甲州街道沿い」なのです。谷保天神の東側らしい。

肥沼さんへ

 甲州街道は、大国魂神社東官衙遺跡のすぐ北側を東西に走り、東は武蔵の国の東側の郡との連絡路であり、東山道武蔵路を越えた西側は、多摩郡の他の郷村をつなぐ連絡路が、ほぼそのまま、時として場所を変えながら中世・近世・現代と続いた幹線道路です。
 そして府中市の高倉地区が一番よくわかりますが、この道の沿線には群集墳が多数存在し(これが国立市の梅林古墳の説明の中に出てくる「川原石で作った石室」を持つ古墳です)ているので、古墳時代後期、つまり6世紀から7世紀中ごろに至る時代の多摩郡の中心地を貫通する道路がこれであり、これを改めて朝廷が直線道路として整備したのだと思われます。
 そして多摩郡の中心地は、今の府中地域であることは、府中の多摩川を挟んだ対岸に、武蔵国二宮の小野神社があることでも良く示されており、北のさいたま市大宮にある武蔵国一宮の氷川神社を中心とする武蔵国の中心の一つと対抗できる中心地であったことを示しています。
 熊野神社古墳の発掘報告書や、国府関係の論文や書籍を読んでいると、昔はここ府中に国府が置かれたのは、この付近が大古墳が存在しない地域、つまり武蔵国のそもそもの大豪族のいない地域だからと解釈されてきましたが、武蔵国造の乱でわかるように、国造の地位をめぐって一族内乱が起こって北の毛野国と朝廷とが介入し、武蔵国南部が朝廷の屯倉となった(九州王朝直轄地となった)たのは6世紀の半ばですから、国府が作られる直前の武蔵国の勢力図は、4世紀から5世紀の大古墳で考えるのではなく、群集墳で考える方向に代わっていることがわかります。
 そしてこの群集墳の中には、そして群集墳のすぐそばに、切石積みの横穴式石室を持つ古墳が現れていて、この被葬者を地域の有力者とみるか朝廷からの派遣官僚とみるかで見解が分かれているようです。

追伸:第384図は、1045次の国分寺口参道遺跡の発掘報告書を書くときにまとめられた図の転載版です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  そしてこの群集墳の中には、そして群集墳のすぐそばに、切石積みの横穴式石室を持つ古墳が現れていて、この被葬者を地域の有力者とみるか朝廷からの派遣官僚とみるかで見解が分かれているようです。

なるほど。そう考えているのですね。

〉 追伸:第384図は、1045次の国分寺口参道遺跡の発掘報告書を書くときにまとめられた図の転載版です。

誰が発案したのかわかりませんが,「ありがとう!」と言いたい図ですね。

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