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2018年8月20日 (月)

『古代東国仏教の中心寺院・下野国分寺』

須田勉著,新泉社刊,1500円+税の上記の本を入手した。
神保町の三省堂で立ち読みをしながら,
「次回にしよう」と思って買いそびれた本である。
(その直前に,江口桂編著『古代官衙』
(ニューサイエンス社刊,3500円税)を買ったので,
記憶にとどめておいて,あとでアマゾンで注文しようと考えた。
先程届いたので,紹介しよう。

Dscn3132

その12ページに,図6(下野薬師寺下層の掘立柱建物)は出てくる。
「全体としては相当数の建物が予想される」と須田さんも書いている。
須田さんの見立てとしては,「7世紀第4四半世紀に成立した掘立柱建物群で,
重複関係や建て替え痕跡が認められないことなどから,
下野国分寺が成立するまでの短期間に存在した遺構群であり,
前代から継続された様相はみられない」と。
さらに,「掘立柱建物の規模や計画性などから判断すると,
豪族居宅を構成する一部であると考えられる。
この掘立柱建物群の上層には,さほど時間を経ずして下野薬師寺が建立されいるので,
寺院と下層遺構とは密接にかかわっていたと考えられる。
下層遺構の性格は,下毛野氏の居宅である可能性が高い。
この居宅が短期に廃された理由は,国家政策としての下野薬師寺の造営と下毛野氏が,
密接に結びついていたからにほかならない。そして,その背景には,
下野国河内郡を本館地とし,中央政界で活躍していた下毛野朝臣古麻呂の存在がある」
という言葉で結び,次章(下毛野朝臣古麻呂)へ進んでいる。
掘立柱建物群が東偏で建てられていること等,まったく関心がないような感じだ。

Dscn3133

ただ,52ページの図29には「回廊平面図」というものが載せられており,
「瓦葺回廊の下層に六脚門と掘立柱塀,それ以前の掘立柱塀がある。
六脚門の東の掘立柱建物は下野薬師寺が造営される以前からの建物で,
下毛野氏の居宅の一部の可能性がある」として描き,

Dscn3137

また,60ページの図35の写真「南西角の瓦葺掘立柱塀」では,
「東日本の寺院では,寺院地の区画施設を瓦葺にした例はなく,
下野薬師寺の格の高さを示す構造である」と書く。
左上に写っているのは,正倉だろう。

Dscn3139


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 私も下野薬師寺の下層にある掘立柱建物群は下毛野君の館だと考えていました。そして王様クラスの人が亡くなったあと、その宮殿をそのまま寺院にしたり寺院に改築した例は、厩戸皇子の宮である斑鳩宮が斑鳩寺に改装されたように、多数あると思います。だから「この君が亡くなったあとで寺院に改造したかな?」と。
 たしかに須田さんは掘立柱建物群の方位と寺院の方位が異なっていることにはまったく関心を示していませんね。
 ただ回廊図であきらかですが、掘立柱建物群の方位には二種類あることが見て取れます。
 一つは下野薬師寺の伽藍南西部にある東偏建物群。
 もう一つは下野薬師寺の伽藍中心部の下部にある正方位の建物と正方位の掘立柱塀。
 この掘立柱塀とその中にある六脚門。これは下野薬師寺に先行する寺院の一部と考えないといけないのではないでしょうか。ただこうすると六脚門のすぐ目の前の東側にある正方位の掘立柱建物の性格がよくわからなくなりますが。

>60ページの図35の写真
 これはp12の図6下層の掘立柱建物の図の南西部を西から写した写真ですね。
 この写真の左隅にある南北4間東西4間の建物。
 H16年度下野薬師寺遺構全体図
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m104083-87574/up.jpg
 を参照するとわかるように、下野薬師寺の回廊の南西隅の礎石が見えているのだと思います。正倉ではありません。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。 

下野薬師寺については,まだまだ謎がありそうですね。
それと,この地に戒壇がある意味も・・・。

〉>60ページの図35の写真
 これはp12の図6下層の掘立柱建物の図の南西部を西から写した写真ですね。
 この写真の左隅にある南北4間東西4間の建物。
 H16年度下野薬師寺遺構全体図
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m104083-87574/up.jpg
 を参照するとわかるように、下野薬師寺の回廊の南西隅の礎石が見えているのだと思います。正倉ではありません。

確かにそうですね。失礼しました。
府中の地下マップを見過ぎたせいか,
掘っ立て柱が密だから「正倉」という反応をしてしまったようです。

肥沼さんへ
>それと,この地に戒壇がある意味も・・・。
 たぶん古田さんも論じておられたことですが、北関東は北部九州と並んで、もっともはやく仏教が伝来して普及した地だという背景もあると思いますね。
 北部九州は九州王朝が主体。北関東は、九州天皇家の分流である毛野君を頂点とした関東王朝でしょう。
 だから北部九州の中心である筑紫の観世音寺に戒壇が置かれ、北部関東の中心である下野の下野観世音寺に戒壇が置かれたのだと思います。
 ちなみに毛野君の歴史を追ってみると、そのそもそもの勢力の発祥の地が下野であったようで、次第に上野さらに武蔵と勢力を広げたもののようです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

この本では,このあと下毛野朝臣古麻呂の話が続くのですが,
ここが地元の人で,大和王朝でも8世紀初頭に大活躍する人ですね。
九州王朝の分流の住まいが下野国というのは,東山道の終点ですから,
分からなくもないですが・・・。その後は大和王朝とも親しくなったのですかね。

肥沼さんへ
 歴史を考察するには単なる思い付きではいけません。しっかり事実を確認すること。
 九州王朝が隋帝国・唐帝国との対決の道をひた走ったとき、当然九州王朝の中にも、そして配下の分王朝の中にも激震が走ったことでしょう。
 近畿天皇家は確実に本家九州王朝と別の道をとったことは、白村江の戦いに参加しなかったことや以後のことから確実。私は斉明紀の精査から、この時期すでに近畿天皇家は九州王朝とは別に唐へ使節を派遣している事実を見つけました。使節の名前は「西海使」。そしてこの傾向は推古朝に遡ると判断しています。これは古田さんとは見解が異なりますが、隋王朝が九州王朝に使節を派遣した際に、その使節がさらに足を延ばして大和まで行き、隋皇帝の国書を渡したと(古田さんはこの記事は10年ほどあとの唐との記事と見ています)。
 同じことが有力な分王朝である、関東王朝、毛野君を頂点とする王朝でもあったと思いますよ。この痕跡が史書の中にないか分析することが必要でしょうね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 私は斉明紀の精査から、この時期すでに近畿天皇家は九州王朝とは別に唐へ使節を派遣している事実を見つけました。使節の名前は「西海使」。そしてこの傾向は推古朝に遡ると判断しています。

遣唐使ではなくて,「西海使」ですか。私には初耳です。
さっそく調べてみなくては・・・。

肥沼さんへ
 近畿天皇家の独自の遣唐使が「西海使」であることは、
http://kawa-k.vis.ne.jp/20171028saimei.pdf
 この文書に書いて「古田史学の継承のために」で公表しました。
 2017年10月28日のことです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

17ページ中8ページに,確かに載っていました。

〉 〇35:又、西海使小花下阿曇連頰垂、自百濟還言、百濟伐新羅還時、馬自行道於寺金堂、 晝夜勿息、唯食草時止。 ※西海使だから近畿天皇家の記事

日記を見てみたら,この日(土)は学校公開で,次の日(日)が部活の練習試合。
今ならプリントアウトしているでしょうが,残念ながその時は
「斜め読み」に終わっていたようです。今からプリントアウトします。

PS 「夢ブログ」の次の日の記事に,以下のものがありました。

「古田史学の継承のために」サイトに,川瀬さんの新論考
川瀬さんが,「古田史学の継承のために」サイトに,
新論考を寄せられた。以下のものである。
「主語有無」の論証など,様々な角度から斉明紀を精査されている。
興味のある方は,以下のサイトへ。
「夢ブログ」は,お知らせだけを担当しています。
●書紀斉明紀を精査する(川瀬さん)
http://koesan21.cocolog-nifty.com/keishou/2017/10/post-7ae0.html
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●書紀斉明紀を精査する
川瀬健一
はじめに:
 「書紀天武紀・持統紀の宮関係記事を精査する」を発表してから、
大下さんと上城さんからさまざまなご批判を頂いた。このお二人からご批判を頂き、
これに反論している過程 で、さまざまなことが明らかになっていった。

 これについては後程また別途明らかにしたいが、
議論の中で上城さんから「書紀斉明紀には主語が省略された文章が多いが、
ここをどう解釈するか知りたい」との要望があって、これにこたえて精査したところ、
とても興味深い結果が出てきたのでここで報告すること としたい。
 結論を先に示せば、九州王朝と唐との戦争が間近に迫ったこの時期において、
近畿天皇家は、九州王朝から半ば自立して、周辺諸国と新たな通交関係を構築していた。
そして唐との直接関係も築いていた。斉明五年七月の遣使記事である。
これに対してこの時期九州州王朝は、唐王朝の東の果てに繋がる、
アムール川河口付近に展開する粛慎を従えようと何度も軍を派遣し、
これに伴って、東北地方から北海道にわたる蝦夷をも安定的に支配しようと画策し、
蝦夷征討も何度も行っていることがわかった。
そして唐にも何度もこれ以前から遣使を行ってはいた。
ただし新羅の遣唐使に付ける形ではあるが。
 唐・新羅連合との決戦と白村江敗戦直前の両王朝の対照的な動きである

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