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2018年8月11日 (土)

今こそ見せよう!多元的「武蔵国府」研究の力~資料収集 8/10

昨日も川瀬さんと,ふるさと府中歴史館で,
武蔵国府の発掘調査報告の資料収集をした。
(同じ机の大学生も,「武蔵国府」の勉強に来ていた)

川瀬さんと調査報告の資料をコピーする中で,
少しずつ事態が明らかになってきた。

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【府中地区は,少なくとも3つの方位の都市づくりがされている!】

① 古い時代・・・5度東偏の都市づくり

府中市の東部方面に存在。残っているものとしては多磨寺の礎石。これは多磨の郡寺ではないか。
ただ,それとペアになる郡衙はみつかっていない。

➁ 九州王朝が支配した時代・・・6世紀後半~7世紀後半の南北軸の都市づくり

府中市のひろい範囲に存在。現在国衙と比定されているものは,その規模からいって郡衙で,
正倉が3つくらいしかないらしい。これだと武蔵国府の正倉としては規模が小さすぎる。
また,国衙については,今私たちが狙っている栄町3丁目から武蔵台にかけての地域で,
現在武蔵国分寺の遺跡地域と比定されている部分。僧寺・尼寺と接している場所。
100m四方の国庁らしきスペースと掘立柱建造物跡+正倉群がある。(現在はそう見なされていない)
そして,東山道武蔵路や武蔵国分寺の塔や尼寺の方位も南北軸。

➂ 白村江の戦いに敗れて九州王朝が滅亡した後の,地元勢力による西偏7度の都市づくり

これに該当するのは,府中の西部地域。遺跡としては,武蔵国分寺の金堂以下の主要伽藍。
府中市熊野神社古墳。東八通りから出土した2間×5間(6m×15m)の掘建柱建物(僧寺中軸にほぼ一致)。
SX3の道路状遺構(僧寺中心軸上にほぼのる)

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つまり,① ↗ ➁ ↑ ➂ ↖ の順に都市づくりの方位が変化してきているということだ。
これは「ごちゃごちゃしている」とも言えるが,逆にある意味法則性があって「わかりやすい」とも言えると思う。
この特徴を利用しない手はないと考える。

私たちとしては,今取り組んでいる➁の時期の国庁を僧寺・尼寺と接する地域に確定すること。
そして,①の時期の多磨寺とペアになるような「多磨郡衙」を東部地域から探し出すことが課題となる。

通説は,本来➁の時期の多磨郡衙を「武蔵国府」と考えたために,
「では郡衙はどこなのだ?」という問いに答えられず,
しかも,「武蔵国府」と多磨寺の方位の違いにも答えられない。
やはり,真の「武蔵国府」「多磨郡衙」の比定には,
私たちの多元的「武蔵国府」研究が登場するしか方法がないのである。(o^-^o)

Dscn3006


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
 昨日はお疲れ様でした。
 帰宅後に手に入れた発掘記録を精査してみました。
 この結論は、100m四方の国庁と思われる遺跡。国庁ではなく、国庁に伴う何らかの官衙遺跡の可能性の方が高い。
 理由は、この遺跡の周囲にある溝の規模です。
 幅がほぼ80㎝くらいで深さも同じくらい。
 これを現在国府とされている大国魂神社東官衙遺跡の周りにある区画溝と比べてみる。
 残念ながら博物館発行の冊子には幅も深さも明示していないが、女性が一人溝の中に立っていて大きさを示している。幅は女性の背丈くらい。深さは女性の背丈より少し浅い。
 ということはおそらく幅は1.5mくらいで、深さも1.5mくらいでしょう。
 この「国庁」遺跡全体を囲む大溝に比べれば、先の遺跡の溝ははるかに小さく浅い。したがってこの遺跡でみた溝は「国庁」全体を囲む大溝ではありえない。
 ではなにか。
 大国魂神社東官衙遺跡の内部にもいくつもの溝があり、それは官衙を区画する溝と考えられている。そしてこの遺跡のすぐ北側と東北、そして西北にも方100mから200mの官衙遺跡があり、これらも区画溝で囲まれている。さらに段丘崖の下の国司館や駅家と思われる遺跡も同様な区画溝で囲まれている。これらの溝の規模は明示されていないが、内部の掘立柱建物の柱穴間距離と比べてみると(これはほぼ2m間隔)、幅は1mほどで深さも同程度。
 となると、私たちが国庁遺跡と目星をつけた掘立柱建物を囲む溝は、これらの官衙遺跡を囲む区画溝とほぼ同程度の規模と思われます。
 そしてこの遺跡の周囲には大国魂神社東官衙遺跡を囲むような大溝は見られないので、結論として国庁に伴う周辺の官衙遺跡。もしかしたら国司四等官のどれかの役宅かもね。あとは当初からその可能性ありとみた駅家。
 となると真の武蔵国府は、この100m四方の区画溝に囲まれた遺跡のさらに南側にあると見るのが妥当だと思います。
 つまり一番最初から想定していた、府中刑務所も含む晴見町1~4丁目の中。
 これなら西側が東山道武蔵路で区切られ、東側は大国魂神社東官衙遺跡の北側まっすぐ北に延びる南北道で区切られた方形の地域です。

 そして残念ながらこの100m四方の区画溝で囲まれた官衙遺跡の西側の主要遺構は、現在武蔵野線が通っている半地下式の溝を掘ったとき(たぶん貨物線をつくったとき)にすでに破壊されたものと思われます。あとはこの145次調査のすぐ北側の建物が建て替えられるときが、発掘するチャンスでしょう。

 武蔵台一丁目の掘立柱建物群は性格を断定できません。
 正倉と考えることのできる総柱建物はたった一棟。周囲には役所とも考えられる大型の掘立柱建物はありますが、これだけではなんとも。性格を考えるヒントとしては、この遺跡群からは粘土採取のための大穴がいくつも見つかっていることや鍛冶炉を伴うと思われる竪穴建物が見られることです。
 この幅10mほどの東西道路の下を掘ったにすぎないので、この道路の南北に同様の建物群が広がっている可能性があります。先ほどの工房と思える遺構を考慮すれば、国府に伴う工房群であり、正倉と思われる総柱建物はこの工房の食料を収める倉庫かも。
 引き続きこの武蔵台一丁目遺跡群の北側の段丘崖上にある武蔵台二丁目遺跡群の掘立柱建物群の性格を調査しておきたいと思います。

 次回府中ふるさと歴史館を訪問できるのは来週の8月15日水曜日です。
 その日までに江口さんの論文集で、先の官衙遺跡の区画溝の大きさを確認しておきます。
 次回の作業。
1:官衙遺跡群の区画溝の大きさを発掘報告書で確認して、先の100m四方の区画溝の遺跡の性格を確定する。
2:武蔵台二丁目遺跡群の報告書を精査しその性格を確定する。
3:大国魂神社東官衙遺跡の発掘報告書を精査する。⇒初期多摩郡衙遺跡を見つける。
 以上三つでしょうか。
 江口さんの著書で区画溝の規模が判明したら1は省略しても良いと思います。

追伸
 江口さんの著書『古代武蔵国府の成立と展開』の第二章「武蔵国府の成立と展開」のp108に、武蔵国府関連区画一覧表があって、そこに区画溝の規模が明示されていました。
1:国衙(大国魂神社東官衙遺跡)上面幅4.7m。深さ2.1m。この遺跡の溝はほぼ東西南北。
2:国司館(崖下のもの)上面幅2.5m。ここもほぼ東西南北。
3:区画A(国衙東北の東に9度傾いたもの)幅1.4~3m。深さ0.6~1.4m。
4:区画B(国衙西北の西に5度傾いたもの)上面幅2.8m。墨書「大目」。
5:区画E(国衙遺跡のすぐ北)ほぼ東西南北。上面幅1.6m。深さ0.6m。墨書「目」「南曹」。
6:区画F(駅家と目される遺構)ほぼ東西南北。上面幅2.7~3.1m。

 私たちが国庁と目した100m四方の「官衙遺跡」の溝は幅が1m前後。深さも1m前後でしたので、多分多摩郡衙だろう国衙遺跡の幅4.7・深さ2.1に遠く及ばないし、駅家と目された区画Fの上面幅2.7~3にも、国司館の上面幅2.5mにも遠く及ばない。
 ということはこれらの主要な官衙遺跡ではないということ。
 さらに区画A(もしかしたら初期の多摩郡衙)や区画B(国司の大目の館)の規模にも及ばない。
 もっとも近いのが「目」墨書がでた国司の「目」(国司四等官の最下級屋敷と思しき区画E。
 ここは区画がほぼ東西南北ということでも似ているし、溝の幅や深さもかなり近い。

 したがって栄町三丁目の東八道路と武蔵野線の交点付近でみつかった100m四方の官衙遺跡は、国司の中の最下級の官である「目・さかん」屋敷の可能性があるものと思われます。
 以上区画溝の規模からの考察です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  次回府中ふるさと歴史館を訪問できるのは来週の8月15日水曜日です。
 その日までに江口さんの論文集で、先の官衙遺跡の区画溝の大きさを確認しておきます。
 次回の作業。
1:官衙遺跡群の区画溝の大きさを発掘報告書で確認して、先の100m四方の区画溝の遺跡の性格を確定する。
2:武蔵台二丁目遺跡群の報告書を精査しその性格を確定する。
3:大国魂神社東官衙遺跡の発掘報告書を精査する。⇒初期多摩郡衙遺跡を見つける。
 以上三つでしょうか。

了解しました。8月15日(水)ですね。
私もそれまでに,自分のできることをしてみたいと思います。

〉 以上区画溝の規模からの考察です。

おお,それはいいですね!
ぜひ府中市の地図の中に,「太さ別の線」で記入したいところです。
そうしたら,かなり見えてくるものがあると思いますし,
もしかしたら「正解」も一目瞭然かもしれませんね。

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