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2018年8月30日 (木)

南京城の「東偏5度」風区域

なぜ九州王朝は,拠点の寺院や街並みを東偏5度にしたのか,
ということが気になっています。

先程いろいろなサイトを検索していたら,
南京城の中に妃たちの住む「西六宮」というのがあって,
もしかしたらそれかもしれないというところまで来たのですが,
これから郷土研究会の8月号の印刷に行かなくてはならず,
読者の皆さんの中でもし時間のある方がいらっしゃったらお調べいただけたら幸いです。
今日は,不完全アップ有り,お願いアップ有りのゆるーい「夢ブログ」です。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 なぜ南京に注目されたか不明です。
 もしかして倭国は中国南朝に倣っていたから南朝の首都であった建康(南京の旧名)の都に倣ったと考えたのでしょうか。 
 でも建康の都は隋が陳を滅ぼしたあと、完全に破壊しつくされたと思うのですが。
 今の南京は、明ができたとき新たに首都として建設したもの。

 陳時代の建康の宮殿や都市跡が発掘されておれば別ですが。

肥沼さんへ

>なぜ九州王朝は,拠点の寺院や街並みを東偏5度にしたのか
 このように問いを立ててしますと、大きな間違いをしでかす原因となります。
 なぜなら、
 全国に東偏5度の寺院や街並みがいくつもあるのは確かですが、これが九州王朝によるものではないかというのは、一つの仮説であって、これ自体がまだ未解決な、これから解決確定すべき課題だからです。
 未確定の問題をまるで確定したかのようにして出される問い。
 これは間違いのもとです。
 そしてこの問いの立て方は問いの中に仮説が入っているので、仮説の上に仮説を立てるという、もっとも学問上ではやってはいけない方法でもあります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

破壊尽くされたのですから,建物はたっていないと思います。
しかし,発掘はされているのではないでしょうか。
絵が手に入りましたので,(2)としてアップしてみました。
点線で囲まれたところです。

肥さんへ

家に帰ってから書こうと思っていたら、川瀬さんが既に書かれていました。
最近肥さんは結論を急ぎ過ぎているような気配があります。
死に急ぐのは良くないですよ。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 死に急ぐのは良くないですよ。

別に「死に急ぐ」つもりはありません。
第一,長生きしないと,アパートのローンが返せません。(笑)

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