もう「多磨郡衙」は発掘されているのではないか?
今回の川瀬さんとの「武蔵国庁」捜索の教訓から,
「多磨郡衙はもう発掘されているのではないか?」と思いついた。
今回「武蔵国庁」に比定した場所が,東山道武蔵路脇で
僧寺・尼寺と接しているところのようであるというように・・・。
すると,「国庁と国分寺がほぼ接するように存在する」というのの応用で,
「多磨郡衙と郡寺である多磨寺もほぼ接している」という関係なのではないかと仮説を立ててみた。。
では,具体的にはどこなのか?
府中市郷土の森博物館ブックレット17の『よみがえる古代武蔵国府』の17ページの図(↓)に,
SB2とかSB3とかの掘立柱建物が同図の中のSB1・4・5と比べてやや東偏しているように見える。
これが最初の多磨郡衙ではないかと。(あと,図の中央を斜めに下る南北の柵跡も怪しいなあ・・・)
ちなみにこれが見つかった宮2丁目への「入り際」は現在,南北軸の場所です。
そこに東偏した建物を建てたとしたら不自然ですし,しばらく道を東に行くと東偏5度の街並みとなる。
SB2やSB3が古い東偏5度の時代にはマッチするが,新しい南北軸の時代にはマッチしないと言えるでしょう。
★ 郡衙(現在の「武蔵国府」の場所) →→→
↘ こんなオーバーには曲がらないけど(5度斜め右に曲がる)
↘
郡寺(多磨寺=京司廃寺跡)
☆ 郡衙 →→→→→ 郡寺(多磨寺) 昔は同じ東偏5度の通りに面していた訳なので,素直に真っ直ぐ歩ける
確かに「SB2は11世紀前半の可能性がある」とも書かれているが,その根拠が不明である。
なにしろ,国分寺の瓦の編年のスタートが741年の「国分寺建立の詔」でかなり遅らされているので,
案外後世(平安時代)の瓦と思われているものが古い瓦(初期の素弁)だったりする可能性もあるからだ。
また,このページにはSB3については何も触れてくれていない。どうして?
この思いつき(「灯台下暗し」説),いかがでしょうか?(o^-^o)
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コメント
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肥沼さんへ
「武蔵国府」遺跡の中に、最初の多摩郡衙(多摩評衙かもしれない)が眠っているとの発想はとても良いと思います。
特に東にわずかにずれた南北の柵列と、わずかに東にぶれた南北棟の掘立柱建物。
たしかに怪しいですね。
もともとの郡もしくは評の役所を改築して、新たに南北軸の新たな役所を作ったという仮説は良いと思います。
あとはこの遺跡の発掘記録から他に出てこないか探すことですね。
投稿: 川瀬 | 2018年8月11日 (土) 13:49
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
仮説としては,いい感じですかね。
では,「川瀬さんのお墨付き」をいただけたということで頑張ってみます。
〉 あとはこの遺跡の発掘記録から他に出てこないか探すことですね。
それを来週しようと思うのですが,
その前にいくつかやっておくことを思いついたので,
これからブログに書いていきますね。
投稿: 肥さん | 2018年8月12日 (日) 01:19