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2018年8月 1日 (水)

もし「国分寺」のスタートが741年でなかったら・・・

多元的「国分寺」研究のスタートは,
聖武天皇が出したと言われる「国分寺建立の詔」の趣旨が,
「国分寺を建てよ」ではなく,
「七重塔を建てよ。そうしたら金泥の経を納めよう」
というものだった。

そして,「国分寺」のスタートが741年でないとすると,
もしその「国分寺」から白鳳期の瓦が出ているとしたら,その歴史は大きく変わる。
(白鳳は7世紀後半なので,70年くらい古くなる)

この「国分寺建立の詔」はすぐ読めるので,ぜひ読んでほしい。
そして,その内容を知ってほしい。
聖武天皇は,「金堂を建てよ」とも「講堂を建てよ」とも言っていない。(おそらく.すでに在った)
その前提の上に「七重塔を建てよ」と言っているのだ。
では,すでにあった金堂や講堂は誰が建てさせたか?
(私は前王朝である,九州王朝だと思っている。
なぜなら彼らが当時の日本列島の主権者だからである)

「国分寺建立の詔」

http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage1099.html

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 武蔵国分寺の軒丸瓦は、ほとんどが素弁蓮華文軒丸瓦で、単弁蓮華文軒丸瓦がすこしでるだけで、奈良時代以降の支配的な複弁蓮華文軒丸瓦の出土は皆無です。
 素弁は飛鳥時代で、6世紀の末から7世紀前半のもの。
 単弁は白鳳時代で、7世紀前から7世紀後半。
 複弁はそれ以後のもので、7世紀後半以後のもの。
 この瓦の時代観を元にしてみれば、武蔵国分寺の創建は、6世紀の末から7世紀前半となってしまい、国分寺建立の詔と大きく齟齬が生じます。
 でも九州王朝の国府寺が全国に作られたと考えられている6世紀末ならぴったりです。
 このため最近では素弁としてきた瓦を無理やり単弁として7世紀中ごろから後半に引き下げていますがこれでも国分寺建立詔と齟齬が生じますので、解釈に苦慮しているというのが現状だと思います。
 あとは8世紀初頭の平城京出土瓦の中に単弁がリバイバルとして出現しているとしているので、これに頼るのかな?
 ただしこれだって、平城京の建物の多くが藤原京からの移築だとすれば、7世紀後半の単弁瓦が出土することは何の不思議もないのですが。
 通説の瓦の解釈は、文献史料による近畿天皇家一元史観に完全に毒されています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 通説の瓦の解釈は、文献史料による近畿天皇家一元史観に完全に毒されています。

本当にそうですね。
昔「赤信号みんなで渡れば怖くない」というフレーズがありましたが,
歴史学については今も「一元史観みんなで毒されていれば通説だ」ということなのでしよう。
私たちの仕事がますます大切になってきましたね。

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