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2018年8月29日 (水)

国分寺四中の地下には何があるか?(4)

『武蔵国分寺跡遺跡発掘調査概報Ⅴ』のそれほど多くない情報を,
数枚の遺跡地図に彩色し,わかる範囲で書き込みをしてみた。

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【➁第8次調査】 ・・・SB22の正方位の「四面庇」の建物が中心。となりのSIの97から銀の鈴も出土

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【③第17次調査と④第38次調査】 ・・・BS36の西偏の西庇の建物が中心。何回も建て直し。周囲も庇付き

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【➄267次調査と⑥590次調査】 ・・・補助的な調査

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『18』のメモ

銀の鈴(2個)・・・SIの97(SB22のすぐ隣り)

刀子(20本)・・・SB7,SIの49,SIの49(もう1つ),SIの51,SIの61,SIの84,
SIの92,SIの126,SK76,SK101,
ピット77,ピット77(もう1つ),
国褐色土B,表土,表土,表土,表土,表土,表土,表土

バックル(1個)・・・表土

紡錘車(4個)・・・SIの74,SIの127,ピット27,表土

墨書土器(結構あった)・・・「万」「塔」「前」「西」や判読不明のもの

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【図面や出土物の写真(コピーが取れないとのことで)】

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 国分寺市立第四中学校遺跡の2回目以降の発掘調査報告書の探索。御疲れ様でした。きっと当初は元町図書館など複数の図書館に「調査概報18」は置かれていたのだと思います。でも不届きな誰かが盗んで行った。
 だから文化課にしかない(恋ヶ窪図書館は国分寺市のサイトによると郷土資料をここに集めてあるのだと思います)。

1:第八次調査について
 ・四面庇の建物がある。しかも東西は10mを超えて正方位の建物。この掘立柱建物SB22は役所でも中心的な建物ですね。この建物のすぐ東隣の竪穴住居SI97から銀鈴が出土し、表土からは石製のバックル(帯飾り?)も。 
 確実にこの建物は国府の役人の住居でしょうね。
 ・二か所小鍛冶とあって場所不明のもの。すぐ北側の区画で第17次調査の部分の北庇の掘立柱建物SB7。この建物の西南の隅に、番号が書いてないですが小型の竪穴住居が二つあります。この部分は第八次調査の排水管の部分。
 資料館配布の資料にここに「鍛冶」のしるしが二つついています。

2:第17・38次調査について
・「南北で遺構の内容が違う」という記述に対して肥沼さんは「北が西偏で南が正方位の違いか」としましたが、これはないです。そもそも発掘者は建物の軸の方位に何の関心も注意も払っていませんから。北西の区画と南西区画の違いは、北西には小鍛冶遺構が出ているから工房と判断できるが、南西の区画には工房と判断できるものがないということではないでしょうか。しかし一次調査の西側部分、西偏の区画溝の内部の正方位の竪穴住居から鉄滓が出ていますから、これ以外の鍛冶関係の道具が出てないので「小鍛冶」遺跡と考えていないだけで、ここも南西地区の正方位の遺跡群ですから、「北と南で遺跡の内容が異なる」という判断は成り立たないと思います。
 ・他の箇所で「ここに北の西偏の在地豪族の住居群と南の正方位の官衙群を区画する両側に溝のある道路があるようにみえる」と肥沼さんは書かれました。
 たぶんこれは、SD20・SD1の東西溝とその間の場所のことだと思います。
 しかしこれは成り立たないと思います。
1:南の区画も西偏掘立柱建物群が存在します。そしてその一つのSB21が正方位のSB22の上に乗っていますから、正方位建物群の後にできたものであることはたしかです。
2:北の区画にも大規模な正方位の掘立柱建物があります。たとえば西端の南北棟で東庇のSB6。この北の区画では掘立柱建物で正方位のものと西偏のものとが重なった箇所がないのですが、西偏のSB7が正方位とみられる小鍛冶遺跡の竪穴住居二つを壊しているので、ここでも当初は正方位の建物群があったのだが、のちに西偏の建物群が取って代わったと考えられます。
3:二つの東西溝の方位は正方位ではありません。東側が北にぶれているので、西偏建物群のための区画溝です。つまりこの溝の北側と南側の両側に、西偏の建物群があったことを示す溝だと思います。

○まとめ:
 報告書を通観してわかる特徴的なことは、
1:正方位の掘立柱建物群に伴う正方位の竪穴住居。今のところここからしか鍛冶に関わる道具や遺物が出ていない(第590次調査で鉄滓が出ている。ここは西偏の大型掘立柱建物SB24のすぐ東側。この鉄滓が西偏の竪穴住居で出ていれば、正方位の建物群と西偏の建物群の双方に鍛冶遺構があるとなりますが・・・)
2:この正方位の掘立柱建物群からは鍛冶遺構だけではなく、銀鈴・金メッキのバックルや石製のバックルという、ある程度の位を持った役人しか身に着けない装身具がでている。
 したがってこの正方位の遺跡群は、「国分寺」の修理院ではなく、国府と僧寺・尼寺全体の建設に関わる官衙遺跡ではないでしょうか。
 そしてその問題の国府の中心である国庁の場所ですが、この第四中学校遺跡の東側、国分寺のすぐ南側にあったのではないかというのが現在の私の想定です(府中刑務所付近との今までの見解は放棄します)。
 こう考えた理由は、
A:僧寺・尼寺の南側・西側・北側に、正方位の掘立柱建物群がある。
B:第四中学校遺跡の東端で東⇒南に曲がる溝があり、この東側には、SD130とさらにその東の塔1の南90mに位置する布堀地業遺構がある。これが全部一続きの溝となれば、今わかっている範囲で東西300mほどに。この溝は国庁遺跡の北側の区画溝と考えることが可能である。

 そしてこの初期の国府・国庁がなんらかの理由で廃棄された後に、おそらく西偏で国分寺の金堂以下が作られた時期に、元の国府の工房群跡を国分寺の修理院として寺院区画溝の内部に取り込んだのではないでしょうか。

 したがって市立第四中学校遺跡群の性格は、最初は初期国府の国府・僧寺・尼寺などを建設しその調度品なども製造する工房を中心とした役所。この初期国府が廃絶したあとで、国分寺の修理院としてここに新たに工房群が作られた。
 この後者の時期は、現在見つかっている国分寺参道口が作られた時期が一番可能性が高いと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 したがって市立第四中学校遺跡群の性格は、最初は初期国府の国府・僧寺・尼寺などを建設しその調度品なども製造する工房を中心とした役所。この初期国府が廃絶したあとで、国分寺の修理院としてここに新たに工房群が作られた。
 この後者の時期は、現在見つかっている国分寺参道口が作られた時期が一番可能性が高いと思います。

そうですね。高い技術を持った人たちを,そのままクビにする手はないですね。
王朝は変わっても,その技術を活かせばいいわけですから・・・。

最初・・・初期国府の国府・僧寺・尼寺などを建設し
 その調度品なども製造する工房を中心とした役所
初期国府が廃絶後・・・国分寺の修理院としてここに新たに工房群を作る

それを頭に入れて,さらに調べていくことにしましょう。

新たな区画溝の研究から再スタートする「国分僧寺のすぐ南説」の展開も楽しみです。
(「府中刑務所付近説」改め)

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