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2018年8月 3日 (金)

九州王朝の「武蔵国府」が見えてきた!

川瀬さんのコメントでお読みになった方もすでにいると思うが,
発掘調査報告書の精査によって,
いよいよ九州王朝の作った「武蔵国府」が見えてきた。

下図の水色で塗ってある範囲が国衙で,
赤丸で囲んである掘立建造物が国衙の建物のうち,東側の建物(南半分)だと思われる。
(参考のために,伯耆国の国庁の予想図を下に載せておいた)
南北の正方位で,東山道武蔵路(武蔵国分寺の塔)ともぴったり合う。

Dscn2939

【参考・伯耆国庁の予想図】

Photo

【1万分の1の地図でみるとここです】

Dscn2941

上の図面には,JR武蔵野線が描いてないのでピンときませんでしたが,
東西B←Aが「東八道路」で,145次を含んで北西に伸びている道路が「府中街道」(昔の東山道武蔵路)です。
だから,その交点(交通の要所)に「武蔵国衙」が作られた感じです。
ということは,十字路の北西に「国分尼寺」,北東に「国分寺」,南東に「国衙」,南西に「正倉群」が
建設されたということになる。(米を濡らすわけにはいかないので,西側の台地に作ったと思われますね)
しかも,正方位の南北での十字路ですから,すごく計画的に作られたわけですね。

            |   |
      尼寺  |  |  僧寺
            |   |
      ーーー  ーーー
      ---  ---
           |   |
   正倉群   |   |  国衙
            |   |

            ↑
 
         東山道
         武蔵路

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コメント

肥沼さんへ

 この想定国庁跡の北西の場所が十字路だという想定は間違いです。
 現代の東八道路に重なるような古代街道は見つかっていません。
 むしろその南に東西に走る現在の学園通り、昔の名前では横海道の方が古そうです。もしかしたらこの道はずっと南の府中街道(古代の武蔵国内の幾つかの郡庁をつなぐ道)に平行に走っているので、これは武蔵国府から多摩郡以外の郡(正確には当時は評ですが)を結ぶための街路だったのかもしれません。そしてこの東西街路に南から、多摩郡庁の所からまっすぐ北に、東山道武蔵路と平行な街路が作られたのかもしれません。
 こういう意味で交通の要衝に国庁が作られたとの結論は正しいが、想定された道が間違っていると思いました。
 正しくは十字路交差点は、国庁と正倉群の南側にある。

 なお国衙と書かずに国庁と書いたのは、国衙だと国庁とその周辺の官衙群全体を指す言葉になるからです。図示されたほぼ100m四方の官衙遺跡(たぶん官衙遺跡だ。国庁の可能性もあるが、一方で駅家の可能性もある。駅家もまた国庁と同じく建物はコの字型に配置され、しばしば駅家が国庁に転用されたり離宮になった例もある)はその官衙群の中心である役所。だから国庁。
 国府はそれら国庁を中心とした国衙の周辺に広がる官衙群と付随する住民の町全体を指す言葉。

 いま見えているのは武蔵国府の中心をなす官衙群の可能性のある遺跡です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  この想定国庁跡の北西の場所が十字路だという想定は間違いです。
 現代の東八道路に重なるような古代街道は見つかっていません。
 むしろその南に東西に走る現在の学園通り、昔の名前では横海道の方が古そうです。

それは残念!図があまりにもピタリとはまるので,
東八通りの下に古代道があると思ってしまいました。

〉 いま見えているのは武蔵国府の中心をなす官衙群の可能性のある遺跡です。

はい,わかりました。一歩一歩詰めていきましょう。

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