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2018年8月16日 (木)

発掘資料の収集 8/15

昨日もふるさと府中歴史館に行って,
川瀬さんと資料収集に勤(いそ)しんだ。

私は大國魂神社付近の東偏5度の掘建柱建物の確認。
川瀬さんは「真の武蔵国府」を求めて,武蔵台近辺の捜索。

私の方はすぐ見つかった。
『武蔵国府の発掘Ⅲ』というもので,1978(昭和53)年3月31年の発行。
なんと,私が大学に入った頃発掘されていたことになる。

Dscn3093

Dscn3094_2

中央の南北2間×東西4間(6m×12m)の掘立柱建物が,
東に5度傾いているのがわかりますか。(東偏5度)

一方,川瀬さんの方は,調査地域が「国分寺」の範囲になっているため,
この歴史館が持っていない国分寺関係の資料がほしいところだ。
次回は,国分寺市の図書館へ行くことになるかもしれない。

川瀬さんのお話では,次は29日頃ということなので,
その前にまず,9月1日の講演会の資料(8月24日締め切り)を作ってしまおうと思っている。

Dscn3092_2

昨日行ったコピー。毎回数十ページをコピーして持ち帰り精査する。
コピー機がすぐそばにあり,1枚10円なのがうれしい。


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
 「武蔵台東遺跡」発掘調査概報の精査の報告です。
 最終のまとめ報告書を読まないと確定的には言えませんが、ここで出た竪穴建物群と掘立柱建物群を発掘者はこう評価しています。
 竪穴建物群で国分寺創建時期に相当する8世紀初のものは西側の斜面に集まり、台地中央部の竪穴建物群は9から10世紀のもの。
 掘立柱建物群の年代を特定する資料はない。さまざまな種類があって性格も特定できない。
 とりあえずは竪穴建物の炉が特殊な形式で工房と考えられるので、武蔵国分寺建設のための工人集団の集落かと。

 ただ遺跡地図をみるとこう断定できないと思います。
 というのは竪穴建物群も掘立柱建物群も、東偏のもの、正方位のもの、西偏のものと、三種類に分類できるからです。
1:東偏のもの。
 掘立柱建物:6棟。うち1棟は東西棟で庇つき。うち1棟は南北棟の総柱建物。
 竪穴建物:8.かなり大型のものが多い。
2:正方位のもの。
 掘立柱建物:10棟。うち1棟は南北棟で庇つき。
 竪穴建物:17.
3:西偏のもの・
 掘立柱他Tもの:10棟。うち1棟は南北棟で庇つき。うち1棟は東西棟で庇つき。うち2棟は総柱建物。
 竪穴建物:25

南部にある大きな溝は、西偏竪穴建物や正方位竪穴建物を削っているので、かなり後世のものと考えられます。

 ということで、東偏・正方位・西偏のどの時期を見ても、工房と考えられる多数の大型竪穴建物群があり、その中に役所と考えられる庇つきの大型掘立柱建物を中心とした幾棟かの掘立柱建物群があり、その中に倉庫と考えられる総柱建物がある(正方位の時期だけみつかっていない)。
 この遺跡状況をみると単に工人の集落ではなく、役所に統括された工房であると断定して良いと思います。
 そしてその性格は、発掘者は国分寺のすぐ西北直近にあるから国分寺建設のためのものと即断していますが、この工房は東山道武蔵路を挟んだ反対側にあるのだから、国分寺建設のためのものだけではなく、すぐ南側にあったと思われる国府建設のためのものと考えることも可能です。
 また報告者が8世紀初とした竪穴建物のすべてが西偏のものであることは特徴的です。つまり一番古いとしたものが一番新しい可能性がある。
 あとこの遺跡の真南にある武蔵台1丁目の道路建設に伴って出た工房群ですが、この工房の竪穴建物の床から上野国分寺の創建瓦が出ていたことが特徴的です。
 はっきりしていることは、上野国分寺建設の工人集団が、武蔵国分寺建設のためにこの地に移り住んでいるということです。
 ここからわかることは、上野国分寺が武蔵国分寺に先立って建設されたこと。両者を建設する主体(現地主体)が上野の在地権力者であったこと。
 そしてこの武蔵台一丁目遺跡の上野国分寺創建瓦が出土した竪穴建物の東偏建物ですし、そのすぐそばにあった大型掘立柱建物も東偏建物でした。
 さらに未だ上野国府が掘られていないので確定できないのですが、国分寺と国府の創建瓦は同じものであることが多い。
 ということは国分寺建設工人集団と国府建設工人集団は同じだということです。

 二つの遺跡群を全体としてみると、この工房群は、
東偏建物群が最初に作られた。そしてここの工人たちは上野国から移動してきた人たちであり、彼らは上野国造である上毛野君配下の工人集団であったのではないか。
 そのご正方位の時代も西偏の時代にもこの工房群は続いた。
 だが最南部の武蔵台1丁目遺跡が東偏建物群だけであることは、特徴的です。
 つまりこの工房は道路・国府・国分寺建設の初期段階だけしかなかった可能性があります。

 あと注意すべきことは、武蔵台一丁目遺跡から出てくる東山道武蔵路は、正方位の南北ではなく、東に5度程度東偏していることです。
 このことと、府中市域全体に広がる東偏建物と道路の関係は如何に?

 以上今のところの考察です。

追伸
 武蔵台遺跡・武蔵台東遺跡・武蔵台一丁目道路建設に伴う遺跡。
 以上の詳しい最終報告書はみな、府中市立中央図書館の4階の地域資料コーナーにあることがわかりました。
 最寄駅は京王線府中駅。
 24日に行って見てコピーしてきます。
 29日は再びふるさと歴史館で多摩寺・国衙遺跡・区画A・区画Bなどの発掘調査報告書の収集をやりましょう。

川瀬さんへ
長文のコメントありがとうございます。

本当に武蔵台東遺跡には,すごい歴史が隠されていたのですね。
東偏・正方位・西偏のそれぞれの時代の特色もつかめるとは・・・。
「検索王の川瀬」を飛び越えて「精査王の川瀬」と命名させて下さい。(笑)

次回は,29日ですね。お会いできることを楽しみにしています。

肥沼さんへ

 国衙遺跡の東偏建物の年代について。
 肥沼さんは国衙遺跡の発掘調査報告を手に入れて東偏建物の記録を手に入れたことで満足して、これ以上の精査をしていないと思うのでやっておきました。
 東西棟で東偏している建物。これは年代を特定する資料がありません。
 南北棟で国衙遺跡の南部に二棟重なって見つかった東偏建物について。
 この建物については、『よみがえる古代武蔵国府』のp17で東偏建物の一つSB2が最近11世紀前半の可能性が指摘されているとありました。この説を再検討し否定しないことには、東偏建物が一番最初のものだという私たちの仮説は成り立ちません。
 「国府遺跡」の調査のまとめ編には、この理由がありました。
 つまり東偏建物SB2の柱穴の一つから11世紀前半の土器が出たからだと。そしてこの建物の西の正方位の南北棟のSB5は同じく柱穴の一つから10世紀前半の土器が出たと。
 このため「よみがえる古代武蔵国府」は、「建物の変遷は再検討の必要が生じている」としたのです。この理由は同じ本のP24・25の「国府の成立と廃絶」を読むとわかります。
 成立は省略しますが、廃絶ですが、10世紀末になると国衙周辺に展開する竪穴建物から專が出てくる。つまり国庁の正殿の礎石建物の床に敷きつめられた專がそこからはぎとられて周辺の一般人の家で使われている。だからこの10世紀末にはすでに国衙は廃絶していたと今までは考えられていたわけです。
 ところがここに10世紀前半と11世紀前半の掘立柱建物が出現した。
 でもこの不思議は、この国衙遺跡がどういう状況に置かれ、その土器が出た柱穴がどういう状況化を見ればたちどころに解決するのです。
 『武蔵国府の調査Ⅲ』によると、大国魂神社の周辺の国衙遺跡は、表土からわずか40㎝ほどの所で発見されているので、かなり後世に削平されている可能性が多いこと。そして出土した掘立柱建物や礎石建物の柱穴もしくは礎石を据えるための根石を埋めた穴の状況を見ると、その削平の状況がよくわかる。
 礎石を据えるために据えた根石の残存状況は悪く、残っていないところも多い。そしてすでに礎石は存在しない。
 ということは後世に礎石が他所に運ばれ、さらにその下も掘り返され根石すら取り出されているということだ。
 そしてこの礎石建物は掘立柱建物を改築して柱穴を広げて根石を敷き詰めて作ったものなので、掘立柱建物の柱穴の最深部が残っているが、柱穴の深さが極めて浅い。つまり通常この大きさの(10mを超す建物)柱穴なら1mは深さがあるのに、残っているのは2・30㎝にすぎないと。
 これで後世に削平された度合いがよくわかります。
 同様に先のSB2ですが、これは掘立柱建物なので柱穴は深いはずなのに40㎝もなく、さらにその幅がなんと2mもあるのです。
 明確に後世に根石を求めて掘り返されたということです。
 したがってこの柱穴の底に見つかった土器が11世紀前半ということは、この建物が作られた年代が11世紀前半ではなく、この柱穴が穿り返された時期が、11世紀前半の少しあとの時期であることを示しているのです。
 SB5の資料をコピーしてくるのを忘れたので確認できませんが、これも同様でしょう。
 したがって国衙の廃絶時期は、従来通りに10世紀の末ごろとなります。
 私たちの理解では多摩郡衙も10世紀の末には廃絶していたということです。
 この廃絶時期は大事です。西偏建物の成立と廃絶に関わるので。

 ということで、国衙遺跡の南部で見つかった東偏の南北棟の掘立柱建物の年代が11世紀前半という新説は否定できます。
 そして国衙遺跡の一番重要な正殿である大規模な東西棟の礎石建物が、東偏の規模の小さい掘立柱建物を削って立っているのですから、東偏の建物群は、正方位の建物群より古いことは確かです。
 あとはこの正方位の建物と東偏の建物の成立年代を示す資料を精査することが必要となります。

 以上東偏建物の年代に関する調査結果です。
 肥沼さん。
 人のことを「精査王」などと呼んで悦に入って無いで、自分自身の力で報告書を精査できるように努力しないといけないですよ。完全に私におんぶにだっこでは、とても「古代史研究にまい進している」とは言えません。
 精査できない理由は、知識不足です。報告書を精査する量が絶対的に不足している。今の智識では読めないだろうが、読む努力をして、わからない言葉は辞書やネットで調べてなんとか読み解く努力をする。これをしないかぎり知識が蓄積できない。掘立柱建物にも、大きさや庇の有無などで重要度に差があること。これは国衙遺跡や郡衙遺跡、そして国分寺遺跡の調査報告書を数多く読んでいれば自然にわかってくることです。
 この間武蔵国府を探してたくさんの報告書をコピーしましたが、肥沼さんは総数100枚は行ったと思われるこの報告書群をじっくり読む努力をしてないでしょ?違うかな?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

耳が痛いことばかりです。

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〉  国衙遺跡の東偏建物の年代について。
 肥沼さんは国衙遺跡の発掘調査報告を手に入れて東偏建物の記録を手に入れたことで満足して、これ以上の精査をしていないと思うのでやっておきました。
 東西棟で東偏している建物。これは年代を特定する資料がありません。
 南北棟で国衙遺跡の南部に二棟重なって見つかった東偏建物について。
 この建物については、『よみがえる古代武蔵国府』のp17で東偏建物の一つSB2が最近11世紀前半の可能性が指摘されているとありました。この説を再検討し否定しないことには、東偏建物が一番最初のものだという私たちの仮説は成り立ちません。
 「国府遺跡」の調査のまとめ編には、この理由がありました。
 つまり東偏建物SB2の柱穴の一つから11世紀前半の土器が出たからだと。そしてこの建物の西の正方位の南北棟のSB5は同じく柱穴の一つから10世紀前半の土器が出たと。
 このため「よみがえる古代武蔵国府」は、「建物の変遷は再検討の必要が生じている」としたのです。この理由は同じ本のP24・25の「国府の成立と廃絶」を読むとわかります。
 成立は省略しますが、廃絶ですが、10世紀末になると国衙周辺に展開する竪穴建物から專が出てくる。つまり国庁の正殿の礎石建物の床に敷きつめられた專がそこからはぎとられて周辺の一般人の家で使われている。だからこの10世紀末にはすでに国衙は廃絶していたと今までは考えられていたわけです。
 ところがここに10世紀前半と11世紀前半の掘立柱建物が出現した。
 でもこの不思議は、この国衙遺跡がどういう状況に置かれ、その土器が出た柱穴がどういう状況化を見ればたちどころに解決するのです。
 『武蔵国府の調査Ⅲ』によると、大国魂神社の周辺の国衙遺跡は、表土からわずか40㎝ほどの所で発見されているので、かなり後世に削平されている可能性が多いこと。そして出土した掘立柱建物や礎石建物の柱穴もしくは礎石を据えるための根石を埋めた穴の状況を見ると、その削平の状況がよくわかる。
 礎石を据えるために据えた根石の残存状況は悪く、残っていないところも多い。そしてすでに礎石は存在しない。
 ということは後世に礎石が他所に運ばれ、さらにその下も掘り返され根石すら取り出されているということだ。
 そしてこの礎石建物は掘立柱建物を改築して柱穴を広げて根石を敷き詰めて作ったものなので、掘立柱建物の柱穴の最深部が残っているが、柱穴の深さが極めて浅い。つまり通常この大きさの(10mを超す建物)柱穴なら1mは深さがあるのに、残っているのは2・30㎝にすぎないと。
 これで後世に削平された度合いがよくわかります。
 同様に先のSB2ですが、これは掘立柱建物なので柱穴は深いはずなのに40㎝もなく、さらにその幅がなんと2mもあるのです。
 明確に後世に根石を求めて掘り返されたということです。
 したがってこの柱穴の底に見つかった土器が11世紀前半ということは、この建物が作られた年代が11世紀前半ではなく、この柱穴が穿り返された時期が、11世紀前半の少しあとの時期であることを示しているのです。
 SB5の資料をコピーしてくるのを忘れたので確認できませんが、これも同様でしょう。
 したがって国衙の廃絶時期は、従来通りに10世紀の末ごろとなります。
 私たちの理解では多摩郡衙も10世紀の末には廃絶していたということです。
 この廃絶時期は大事です。西偏建物の成立と廃絶に関わるので。

 ということで、国衙遺跡の南部で見つかった東偏の南北棟の掘立柱建物の年代が11世紀前半という新説は否定できます。
 そして国衙遺跡の一番重要な正殿である大規模な東西棟の礎石建物が、東偏の規模の小さい掘立柱建物を削って立っているのですから、東偏の建物群は、正方位の建物群より古いことは確かです。
 あとはこの正方位の建物と東偏の建物の成立年代を示す資料を精査することが必要となります。

 以上東偏建物の年代に関する調査結果です。

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私の分まで,精査をありがとうございました。

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