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2018年8月13日 (月)

もう「多磨郡衙」は発掘されているのではないか?(3)

昨日は曇りがちで,あまり暑くない1日だったので,
昼食後フィールドワークに行ってきた。
ここのところ視野が広がってきた,
府中市の東部地域について確認しておきたかったのである。
コースは,以下の地図の通り。

Dscn3043

A地点・・・発掘結果から「掘立柱建物」の位置取りを頭に入れる。
      大國魂神社の結婚式場の建設で,広い面積の発掘が行われたのだった。

B地点・・・ここで「興味深い神様のまつり方」をしているTさん宅を緊急訪問し,お話を聞く。
      なんと,南北軸の地区なのに,「東偏5度で今も神様をまつっている」のだ。
      私が指摘すると,「言われてみれば,そうですねえ・・・」とのことだったが・・・。お住まいは,南北軸。

Dscn3045

  ☆ 川瀬さんのコメントにより,改訂しました。こちらが正しいです。
    教訓のために前のものも消さないでおきますね)

Dscn3046

Dscn3031

C地点・・・久しぶりに,多磨寺の塔心礎へ。「もうすぐ謎を解きますからね!」と報告!?

Dscn3037

D地点・・・天神山(日吉神社が山頂にあった)へ。先日訪ねた「てんじんみち」の目的地である。
      競馬場も中央フリーウェイもなかった当時,どんな風景が南側の多摩川方面に広がっていたのだろう。

Dscn3041

このあと,河岸段丘の崖(断崖絶壁ではなく,多摩川へ向かっての下り坂という感じ)に沿って歩いた。

昨日の最大の収穫は,Tさん宅の庭にあった「昔ながらの方位(東偏5度)でまられていた社」だった。
家屋は南北の方位に変わっても,みだらに神様をまつる方位は変えない。
ある意味では保守的であるが,ある意味では頑固だ。
たとえ,政権を持つ九州王朝が国府を置き評制を敷こうとも,
白村江の戦い後,地元の勢力が西偏7度の都市づくりを進めようとも,
さらに大和王朝が権力を握ろうとも,神様をまつる方位を変えることはしなかった(のだと思う)。

お庭にはこの小さな社(しかし毎日大切にしていると思われる)に不似合いなほどの大きなクスの木が植わっており,
「古くから住んでいます」とおっしゃっていることを証明するかのようだった。
まさか「千何百年前から住んでいるというのではないとは思うけれど…。

歴史を研究する楽しみはいろいろあるが,昨日はかなり大きな収獲だった。
1300年前の歴史を研究するということは,
「人間とは何なのか」を研究することに等しいと思えた瞬間だ。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
 いろいろ考察した後で現地を歩いてみると、また新しい発見がありますね。
 ところでこのTさん宅に東偏5度の向きで祭られている神様の名はわかりますか?
 写真をみて図を見てみると、鳥居が北側にあって社が南側なので、神様が南にいて、北側から拝んでいる位置関係になりますね。
 もしかして天神様?

追伸
 肥沼さんの書かれたTさん宅付近の地図の方位が違いますね。
 地図に書かれた方位は磁北を指している。
 「武蔵国府」からTさん宅に来た道は正確に西⇒東の方位。したがって東偏しているのは、Tさん宅から左方向(北方向)に曲がる道。理由はTさん宅から東に向かう道が「武蔵国府」から西⇒東にきた道からは南に5度程度折れ曲がっているからだ(つまり京所道に平行)。
 Tさん宅の社は、この京所道に平行に走ってる道の延長上(図の破線)に沿って、祠が東側、鳥居が西側にあるので、周囲の祠とは向きが違っているわけです。

 Tさん宅は東編5度の地域と南北正方位の地域との境目に建っています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ところでこのTさん宅に東偏5度の向きで祭られている神様の名はわかりますか?

初対面の上.興奮しすぎていたので,聞き忘れました。
次回ご一緒した時にでも,再チャレンジしてみましょう。

〉 写真をみて図を見てみると、鳥居が北側にあって社が南側なので、神様が南にいて、北側から拝んでいる位置関係になりますね。

いえ,これは西側に鳥居があって,社は東側です。
「武蔵国府」のある西の方から,東の方の多磨寺を望むに拝む形になります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 Tさん宅は東編5度の地域と南北正方位の地域との境目に建っています。

そうです,そうです。Tさんの家の東側の道が「東偏5度」なのを失念していました。
本当に「素晴らしい場所」にお宅をお持ちですね。(笑)

改訂版を載せてみました。となると,一番北にある神社の方位も気になるところです。
「東偏5度」の道に接しているわけですからね。
昨日は真ん中のTさんの神社だけ「東偏5度」のものだと考えていました。
ありがとうございました。

追伸の追伸
>D地点・・・天神山(日吉神社が山頂にあった)へ。先日訪ねた「てんじんみち」の目的地である。
      競馬場も中央フリーウェイもなかった当時,どんな風景が南側の多摩川方面に広がっていたのだろう。
 について。
 『よみがえる古代武蔵国府』にこの風景を復元できる記述が多数あります。
 p36・37の「国府の町の調査状況」を見ると、天神山の南の多摩川沖積地には、国府・国司館のある台地から東南にのびたような微高地が見られます。そしてここには竪穴建物が多数と、溝が少し。
 さらにp60の地図には、この現在府中競馬場がある半島状の微高地にある竪穴建物の総数が示されている。総数52。かなりの規模の村があったことが伺えます。
 そしてp96・97の「田畑を耕す」の左ページの地図を見ると、明治前期でもこの微高地は集落と神社であってずっと村が続いていたことがわかります。そしてこの微高地と段丘の間は水田。
 最後にp113の「国府と地域社会」の左ページの地図を見ると、この微高地と段丘の間に条理状の地割が見られることが示され、この水田の全部ではないが、かなりの部分が律令制下で作られた水田である可能性が示されています。
 これらの資料を総合してみると、天神山から見える下の多摩川氾濫原の風景は、目の前に半島状に延びる微高地上の集落と、その間に広がる水田の風景が手前の物であったと思います。
 そしてその南に多摩川の流れがあり、その向こう岸の段丘上には須恵器を焼く窯があった。日によってはここから上がる須恵器を焼く窯の煙も見えたことでしょうね。
 さらに対岸の左手に延々と続く多摩丘陵の中には、いくつか寺院の甍も見えたかもしれません。
 対岸すぐ近くの川崎市菅には丘陵上に八角堂があったことが知られており、さらに南、我が家の近くの川崎市長尾の丘陵上にも奈良時代以前からの寺があったことがわかっており、これらの川の対岸に深大寺の甍があったこともわかっています。
 こうした多摩川両岸の人の営みも、当時であったなら見渡せたことと思います。

 以上『よみがえる古代武蔵国府』の資料からの風景復元です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 以上『よみがえる古代武蔵国府』の資料からの風景復元です。

ということは,私の「思いつき」的な考えで言えば,
当時の進んだ都市づくり(条里制の水田地帯,大陸の先進文化を伝える寺院,
そこに高度な温度管理で焼かれた瓦を提供する窯の煙など)が一望できる
「あこがれスポットだった」と言えるのではなかったでしょうか。
今でも私たちは東京スカイツリー(ひと昔前は東京タワー,京都なら京都タワー)から
発達した広大な都市や碁盤の目のように区画された街並みを見て喜びますが,
宗教スポット+憧れスポットへ至る道として,「てんじんみち」はあったかもしれません。
今は幅が狭まって「裏通り・陰通り」になっていますが,この東部地域が府中の中で
「最先端地域」だった時の名残が「東偏5度」の道路に現れているように思います。

Tさんのお宅は,過去と現在をつないでくれた「タイムマシーン」です。
その彼らがまつっておられる神様は,果たして「東偏5度の時代の神様」?
それとも「時代を生き延びるためのダミー神様」?
いずれにしても,今後の研究がますます楽しみになってきました。
ありがとうございました。

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