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2018年8月17日 (金)

もう「多磨郡衙」は発掘されているのではないか?(6)

「武蔵郡衙」(評衙かもしれない)の研究と関係あるかもしれない,
「東偏5度」の寺院のインターネット検索をしてみた。

以前「夢ブログ」で訪問記を書いた新治廃寺(茨城県筑西市)や信濃国分寺(尼寺が5度で,僧寺は3度)(長野県上田市)のほかに,
三宅廃寺(福岡県福岡市)というものがあるらしい。

三宅廃寺2(福岡県福岡市)~主軸方位は磁北から5度東偏する

三宅廃寺

古い寺院らしく,出土物も興味深い。
もし「東偏5度」の寺院が九州王朝系のものだったら,
大和王朝の成立後はにらまれて,廃寺にされたものもあると思う。
廃寺はなかなか詳しいことがわからないことが予想されるが,
礎石は無くても「建物が建っていた方位」は知ることができる可能性もあるので,
「〇〇廃寺」と聞いたら,一応「何方位かな?」と思って確認してほしい。

そして,前に川瀬さんが書いてくれたものに出てきた

紀伊国分寺(和歌山県)

そして,今回の多磨郡(評)衙&多磨寺を含む街並み(東京都府中市)

これらを白地図にドットしてみると,大変広い範囲になります。
そして,なんとなく九州王朝が背景にありそうな気も・・・。

※福井県三方郡の興道寺廃寺も興味深いのですが,
東偏7度+西偏2度だと,合計東偏5度になるのかと・・・。
これでは変ですかねえ。(^-^;

興道寺廃寺2

新たに三宅廃寺や講道寺廃寺の存在を知ることができて,良かったです。(o^-^o)
外していたら御免なさい。

Dscn3103

・……………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【川瀬さんのコメントによって増補改訂された東偏5度の寺院と街並み】

Dscn3109


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
 私が調べた西国諸国国分寺にも多数、伽藍中軸線が真北に対して東に5度偏したものがありますので列挙しておきます。

■山陰道 http://kawa-k.vis.ne.jp/20161121musasi2-9-1.pdf
 ●因幡国分寺
  国分寺に想定されている国分寺集落を取り囲む東西南北道は、真北に対して5度東偏している。塔は東5度
 ●伯耆国分寺
 伽藍中軸線が真北に5度東偏している。
 ●出雲国分寺
 伽藍中軸線と周辺の条理遺構は真北に5度東偏している。
※同じく出雲国府も5度東偏(掲載地図でわかる)

■南海道 http://kawa-k.vis.ne.jp/2017122musasi2-9-3.pdf
 ●紀伊国分寺
 中軸線が5度東偏

■山陽道 http://kawa-k.vis.ne.jp/20161211musasi2-9-2.pdf
 ●周防国分寺
 中軸線が5度東偏

 あと考察しなければいけないことは、なぜ奈良時代やそれ以前の飛鳥時代の寺院に中軸線が真北に対して東に5度偏したものが作られたかです。
 広島大学の研究では、この時代の磁気偏角(真北に対して磁北がどの程度傾くか)は西に偏していて、東に偏するのは11世紀から19世紀なのです。
 したがって飛鳥奈良平安時代に寺院を造る際に北を磁石で測定してつくったとしても東偏の物が出てくるわけがないのです。
 ではなぜ東偏のものがあるのか。
 西に偏した建物があるのは、飛鳥奈良平安時代は磁気偏角が西に偏していますから、磁石をつかったと判断できます。
 そして武蔵国府付近なら、国分寺の金堂伽藍の西7度や「国府遺跡」の西北にある区画Bの西5度なら、国分寺付近の磁気偏角の歴史的変化を広島大学の研究成果で復元すれば、いつごろかはある程度絞れるはずです。
 そして正方位のものは。
 一つは九州王朝が隋帝国成立に対抗して天子を名乗った時代には建築物がすべて正方位になったと考えられます。
 さらにもう一つは、近畿天皇家の覇権が確立した時代にはここも正方位でやったと考えられます。
 でもこう考えてみると東偏だけが理由不明ですね。

肥沼さんへ
 興道寺廃寺について。
 2の報告書を見ると違いますね。
 磁北から2度西偏=真北から9度西偏
 磁北から7度東偏=真北

 創建期はほぼ9度西偏して、再建期がほぼ真ということなので、東偏グループには入りませんね。
 この場所は越前の初期国府のあった敦賀の西側。山を越えたところ。
 越前国府は敦賀のすぐ東側の「武生」との地名のある土地にあったと今では考えられています。ここは紫式部の時代まで国府だ。
 この武生は現在越前市と名称を変更した旧武生市とは別の場所です。

追伸
 三宅廃寺も「磁北から5度東偏」とあります。
 つまり真北から2度西偏です。

 文書をしっかり読んでください。磁北と真北を取り違えている。

川瀬さんへ
コメント・訂正・増補,ありがとうございます。

これでやっと「使える分布図」になりました。
どうもすみません。(^-^;

東偏5度と「国分寺」,深いつながりがありそうですね。
そして,時期もかなり早まりそう。
信濃国分寺(尼寺)も再登場しましたね!

あと気になっているのが,下野国薬師寺の下層の掘立柱建物群で,
なんか東偏5度みたいな気がしています。

肥沼さんへ

 「下野国薬師寺の下層の掘立柱建物群」がわかる図面のありかをご教示ください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 「下野国薬師寺の下層の掘立柱建物群」がわかる図面のありかをご教示ください。

それは福田信夫さんの『鎮護国家の大伽藍~武蔵国分寺』(新泉社)のシリーズ「遺跡を学ぶ」で,須田勉さんの『古代東国仏教の中心寺院・下野薬師寺 』だったと思います。
九州王朝が置いた国府・国府寺かもと,一瞬思いましたが,それだけを確認するために1500円を出すのは・・・と思い,買ってきませんでした。その日は,江口桂さんの『古代官衙』3500円もすでに買っていましたので…。

肥沼さんへ
 ネットで見たのではないのですか。
 調べてみました。
 奈良文化財研究所の古代寺院データベースで「下野薬師寺」を検索すると「H16年度遺構全体図」「H17/18年度遺構全体図」「下野薬師寺下層遺構配置図」が出てきます。
 これらで確認したら次のことがわかりました。
1:下野薬師寺自身の伽藍中軸線は真北に対して東3度ほど偏している。
2:下野薬師寺の伽藍地区画溝と塀の西側のものは、真北に対して東5度ほど偏している。
3:この塀のすぐ東側に見つかった南北棟の掘立柱建物・1113建物(下層遺構の一つ)の南北軸は塀とほぼ平行なので、5度偏していると思います。
4:他の下層遺構の掘立柱建物はこれと同じく東5度偏してるものや、東3度ほどのもの、さらに東7度ほど偏したものもあります。

 さらに栃木県埋蔵文化財センターだより2011年6月号には下野薬師寺の発掘記録が掲載され、「再建の塔の南西部に調査区を設置し、調査をおこないました。その結果、下野薬師寺に先行する遺構として掘立柱建物跡1棟を確認しました。この建物は、東西6間・南北2間(15×6m)の東西棟の建物で、建物の向きが下野薬師寺の主要堂塔の方向と異なるため、伽がらん藍とは時期が異なり、整地層の下層で確認されていることから、薬師寺に先行する建物と考えられます。」とあるので、さらに伽藍地の東側の再建塔の南西部に新たに先行する掘立柱建物が出土していることもわかります。図面がないので軸が不明ですが。
 http://www.maibun.or.jp/c-info/pdf04/57.pdf
 以上ちょっと調べてみました。肥沼さんが本で見たとき思ったとおりに、下層遺構には東に5度偏したものがたしかにありました。
 したがって下野薬師寺の創建前にこの地にあった掘立柱建物群はその軸が東に偏したものであることは確認できました。その性格はいまだに不明のようですが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

ご確認ありがとうございます。
私が見たのは,例の須田勉さんの本だけです。
きっと最近府中市東部地域の「東偏5度」をよく見ているので,
目(=脳)が「東偏5度」に反応しやすくなっているのかもしれません。

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