« 国分寺四中の地下には何があるのか? | トップページ | 所沢市上安松の発掘現場 8/23 »

2018年8月24日 (金)

国分寺四中の地下には何があるのか?(改訂版)

今午前2時です。
これをアップしてから寝ます。

磁北の問題があって,資料を描き直しました。
そして,今回は4段階にしてみました。
すなわち,「もっと東偏 → 東偏5度」「東偏5度 → 正方位」
「正方位 → 西偏7度」「西偏7度 → もっと西偏」です。
改定した資料を載せて,簡単に解説してみます。

① 東偏5度・・・原野のところどころに竪穴住居がある。府中での東偏5度の街づくりは,
ここにも及んでいたもよう。

Dscn3204

➁ 正方位・・・九州王朝が東山道武蔵路を作り,国府を置いた。塔を中心とした
正方位の武蔵国分寺も着工。土師器や須恵器などのほかに,銅製の帯締め具や銀製鈴,
墨書土器,刀子,釘,鉄滓などが出土しているとのこと。

Dscn3205_3

③ 西偏7度・・・白村江の戦いで九州王朝は滅亡。替わってこの地域を取り仕切った地元の有力者。
金堂以下の主要建物の方位は,西偏7度(府中熊野神社古墳=上円下方墳と同じ方位)と決まった。

Dscn3206

④ 律令制は崩れ,東山道も細くなり,この地域は荒廃していった。残されたのは,国司の館か?

Dscn3207_2

こんな感じに改定してみましたが,いかがでしょうか。
もし国分寺四中が「校庭改良工事」を行う機会があれば,
私としては毎日発掘現場に通いたいと思う。
(まだまだたくさんの掘立柱建物が埋まっていると思うので・・・)(o^-^o)


« 国分寺四中の地下には何があるのか? | トップページ | 所沢市上安松の発掘現場 8/23 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 再作業。御疲れ様です。
 でも①東偏と④もっと西偏いらないと思います。
 ①の図で東偏とされた竪穴住居の向きは、②の正方位とされた掘立柱建物の方位とほとんど同じです。
 ですからこの地域(国分寺僧寺尼寺・国府が作られた地)は、東偏の町がなかった地域と判断できると思います。
 つまり多摩評の中心街を避けたその北方の原野に正方位で国府と寺院を建てた。そして多摩評の官衙も正方位にたてなおしたと判断できます。
 ④のもっと西偏とされた掘立柱建物の方位は、③の西偏掘立柱建物の方位とほとんど同じです(南側のもの)。ここは一度図面に補助線を入れて正確に方位を測定してみてはどうでしょうか。もしかしたら④の一番北側の東西棟の建物は西偏10度くらいかもしれませんから。

 あと気になることはこれらの異なる方位の街路があることの意味を早急に結論づけない方が良いと思います。
 書くのならば「仮説です」と明記すべきでしょう。

 ところで肥沼さんの今回の作業は大事なことを見つけたと思います。
1:発掘調査図がなんと磁北で書かれている。これは概報だからなのかもしれませんが。これを見つけてくれてありがとうございます。
2:武蔵国分寺の周辺で正方位なのは、塔1と尼寺だけと思っていたら(もちろん東山道武蔵路も)、周辺にたくさんの正方位の掘立柱建物群が存在することがあきらかになった(国分寺四中・武蔵台東遺跡、そして国分寺の北など)。

 この正方位の掘立柱建物群が何なのか。ほんとうに国分寺の修理院などなのだろうか。
 特に国分寺の南と西にある遺跡群は。
 この西中遺跡のすぐ南にあるのが、先日見つけた正方位の区画溝に囲まれた掘立柱建物。これを国衙に伴う官庁とみたのですから、そのすぐ北側の四中遺跡も国衙にともなう官庁と見ることも可能です。
 
 四中遺跡に視点を広げてもらって、視野が広がった気がします。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 つまり多摩評の中心街を避けたその北方の原野に正方位で国府と寺院を建てた。そして多摩評の官衙も正方位にたてなおしたと判断できます。

はいはい。

〉 あと気になることはこれらの異なる方位の街路があることの意味を早急に結論づけない方が良いと思います。
 書くのならば「仮説です」と明記すべきでしょう。

わかりました。せっかくのチャンスを得たのですから,慎重にいきます。

〉  ところで肥沼さんの今回の作業は大事なことを見つけたと思います。
1:発掘調査図がなんと磁北で書かれている。これは概報だからなのかもしれませんが。これを見つけてくれてありがとうございます。
2:武蔵国分寺の周辺で正方位なのは、塔1と尼寺だけと思っていたら(もちろん東山道武蔵路も)、周辺にたくさんの正方位の掘立柱建物群が存在することがあきらかになった(国分寺四中・武蔵台東遺跡、そして国分寺の北など)。

期せずして,見つけてしまいました。(^-^;

〉  この正方位の掘立柱建物群が何なのか。ほんとうに国分寺の修理院などなのだろうか。
 特に国分寺の南と西にある遺跡群は。
 この西中遺跡のすぐ南にあるのが、先日見つけた正方位の区画溝に囲まれた掘立柱建物。これを国衙に伴う官庁とみたのですから、そのすぐ北側の四中遺跡も国衙にともなう官庁と見ることも可能です。

私もそう思いました。これは「修理院」などではないな,と。

〉 四中遺跡に視点を広げてもらって、視野が広がった気がします。

そう言っていただけるとうれしいです。(o^-^o)

肥沼さんへ

 そうそう。今朝書くのをわすれていました。
 60才の誕生日。おめでとうございます。誕生会やりたかったですね。一人でお祝いしたのかな?
 
 もしかしたら肥沼さんが見つけた国分寺市立第四中学校遺跡の正方位の掘立柱遺跡群。前にも書きましたが、これもしかしたら、初期武蔵国府の一部かもしれませんよ。

 わたしはずっと府中刑務所とその付近の晴見町しかみていませんでした。
 そうさせた理由は、国分寺参道と入り口遺跡の存在です。これがある以上、初期武蔵国府はここより南だと。
 だが参道入り口の門柱(もしかしたら鳥居?)の柱穴から出てきた国分寺の瓦から考えると、この参道入り口ができたのはかなり後世になるらしい。今の編年でも10世紀と出ている。
 でも西に7度ずれた金堂院とこの参道口は一体だから、真北を向いた塔1を中心とした創建伽藍が作られた当時にはこの参道口はなかったわけだ。
 今回この参道口の北側の四中遺跡の中心が正方位の掘立柱群だということがわかり、その多くは国分寺の伽藍区画溝よりも南であることがわかった。
 この伽藍区画溝は創建伽藍の区画溝を西に延長したものだ。
 ということは西中遺跡の正方位掘立柱建物群は、塔1を中心とした創建伽藍が作られつつあった当時も、そこにあった可能性があるわけだ。
 つまり「国分寺」僧寺は初期武蔵国府のすぐ北側に作られ、尼寺は東山道武蔵路を挟んだその西側に作られた可能性が見えてきた。
 ではこの西中遺跡は何なのだろうか。
 最初は初期国府の一部の官衙群であった。
 しかしこれが衰退したあと、僧寺の金堂院が作られた時代に、「国分寺」の一部の、それこそ修理院として寺地に取り込まれたのではないだろうか。
 ここはここの発掘報告書にある、鍛冶遺構や金属製品が出土した建物がどの時代のものか確かめると確定できる。
 つまりこれが西偏建物群からの出土なら、この仮説は成立する。
 ではその時期はいつなのか?
 ここを考えるヒントの一つが、この遺跡や周辺遺跡での西偏建物の年代だろう。
 そしてもう一つのヒントが、広島大学の研究による磁気偏角推移表だろう。

 この二つのヒントをもとに、西偏建物群の年代を確定できれば、その前の正方位の時代や東偏の時代も絞れてくることでしょう。

 国分寺市立第四中学校遺跡が正方位の掘立柱建物群を中心としていることの「発見」は、こうした知見につなげてくれる。
 60才の誕生日の「発見」でした。
 これって、天からの贈り物でしょうかね?

追伸
 前のコメントを書いていて、参道遺跡の成立と廃絶の時期が気になりましたので、『武蔵国分寺跡調査報告6』を精査してみました。
 成立時期は、門遺構の柱穴から出土した瓦は、創建瓦(8世紀中ごろ)再建瓦(9世紀中ごろ)の両者が出ているので、これ以後としかできない。
 ただし瓦はもっと遡る可能性が、どちらも軒丸瓦が素弁蓮華文であることから言えます。
 次に廃絶時期。二つの路面から出てきたもっとも新しい土器が11世紀後半の土師器なので、この時期には参道は使われなくなったと判断されている。そして門柱遺構だが、二度目の門柱(写真だと南側)のはそのまま立ち腐れていて、柱を埋めたときに詰め込んだ土の中から10世紀前半の土師器がでている。この土師器が後世の混入でなければ、二度目の門柱は10世紀前半以後に作られた可能性を示しており、一度目の門柱は抜き取られたあとがあるので、一度建てられたあとで腐ってきたので抜き取られ、少し南に門柱を再建した。その再建時期が10世紀前半となる。掘立柱が何年もつかわからないが、式年遷宮が20年で行われ、神宮などの神殿も掘立柱なのだから、この20年を参考にすると、最初の門柱も9世紀代ということになりますね。
 つまり西7度西偏の金堂院の軸線にそって作られた参道口は、なんと9世紀に作られて11世紀後半には廃絶したということになります。
 ただし金堂伽藍と参道口が同時期に作られたかどうかは確定できません。
 だた参道口がそのまま東南に延びて、「国衙遺跡」からまっすぐ北に延びてきた道に接続しているので、「国衙遺跡」が郡衙遺跡だという私たちの推定に依拠すれば、この参道口が作られた9世紀には、すでに本来の初期の国衙遺跡は廃絶していたということに論理的にはなります。
 
 以上参道口の成立と廃絶の年代と、参道口より北の国分寺市立第四中学校遺跡が正方位の掘立柱建物群で成り立っていたことを考え併せてみると、国分寺の伽藍区画溝のすぐ南側から、この参道口付近が、初期国府の北部地域であった可能性が強まってきます。
 この観点から「メゾンKAWAI地区」報告書の周辺地区遺跡地図を見てみると、東山道武蔵路に面した方形で正方位の区画溝に囲まれた掘立柱建物だけではなく、その東方にはいくつも正方位の溝で区画された地域があることに気が付きます。
 これらの正方位の区画の年代を示す遺物が出ていないか、報告書を精査する必要がでてきました。
 ここらあたり、「国衙遺跡」の精査とともに、29日水曜日の課題ですね。
 あと「四中遺跡の建物群の年代」と「武蔵台東遺跡の建物群の年代」の確認もやっておかないといけないことです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  そうそう。今朝書くのをわすれていました。
 60才の誕生日。おめでとうございます。誕生会やりたかったですね。一人でお祝いしたのかな?

ありがとうございます。「夢パ」や「卒パ」で賑やかにお祝いしたので,
かえって「還パ」は落ち着いて迎えられて良かったですよ。
しかも「国分寺四中遺跡」というビッグ・プレゼントもありましたし・・・。
もしまた昨日「還パ」を賑やかにやることになっていたら,
この「発見」はさらに先に延びてしまっていたでしようからね。

〉  国分寺市立第四中学校遺跡が正方位の掘立柱建物群を中心としていることの「発見」は、こうした知見につなげてくれる。
 60才の誕生日の「発見」でした。
 これって、天からの贈り物でしょうかね?

川瀬さんが国分寺四中にあまり関心を持たれていないのを見て,
「それほど重要と思われていないのかな」とも思いましたが,
「それだったら私がやっておけば,川瀬さんの負担が少なくて済む」と思って,
50代最後の日をそれに当てることにしました。
そしたら,出るわ出るわ・・・,40棟以上の掘立柱建物群で,
川瀬さんの言っておられた「庇付きは重要」というのにも該当するし,
もちろんこれは「栄町三丁目の100m四方の遺跡」の北方に当たる訳だし,
「これは宝の山を見つけたぞ!」と思って,さっそく色分け図を作ってみました。
(磁北のことを忘れていましたが)
しかしすぐ川瀬さんが気づいていただいたので,
正方位の掘立柱建物群の存在も確認でき,
「塔が正方位」との関係も再登場できたし,お陰様でいい結果となりました。
これは「天の贈り物」というより,個性の違う2人の共同研究の成果が出てきた
と言うことだと思います。ふつつか者の私ですが,今後ともよろしくお願いいたします。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 追伸
 前のコメントを書いていて、参道遺跡の成立と廃絶の時期が気になりましたので、『武蔵国分寺跡調査報告6』を精査してみました。

ありがとうございます。さすが川瀬さんですね。

〉  以上参道口の成立と廃絶の年代と、参道口より北の国分寺市立第四中学校遺跡が正方位の掘立柱建物群で成り立っていたことを考え併せてみると、国分寺の伽藍区画溝のすぐ南側から、この参道口付近が、初期国府の北部地域であった可能性が強まってきます。
 この観点から「メゾンKAWAI地区」報告書の周辺地区遺跡地図を見てみると、東山道武蔵路に面した方形で正方位の区画溝に囲まれた掘立柱建物だけではなく、その東方にはいくつも正方位の溝で区画された地域があることに気が付きます。

おお,やっぱり発掘というのは素晴らしい仕事ですね。
当時の人たちにとっては「廃棄」したものも,ちゃんと後世に残ってしまう。ありがたい。

〉  これらの正方位の区画の年代を示す遺物が出ていないか、報告書を精査する必要がでてきました。
 ここらあたり、「国衙遺跡」の精査とともに、29日水曜日の課題ですね。
 あと「四中遺跡の建物群の年代」と「武蔵台東遺跡の建物群の年代」の確認もやっておかないといけないことです。

29日(水)に府中のふるさと資料館ですね。よろしくお願いいたします。
なお,国分寺関係の発掘報告書は,武蔵国分寺跡資料館にたくさんありますが,
「写真は撮っていいが,コピーは取れません」という不便さで,
今回の「国分寺四中遺跡」も,そこから歩いて10分の
「もとまち公民館・図書館」を利用しました。
ここは1枚10円でコピーができ,とても便利です。(机もいっぱい使えます)
国分寺駅からも歩いて10分のところです。

肥沼さんへ

 この遺跡についていくつか質問するのを忘れていました。
1:この遺跡群の年代はどのように判断されていましたか。そしてそう判断した基準となる事実は何でしょうか。
2:この遺跡にはいろいろなものが出るようですが、
 a銅製の帯締め具や銀製鈴はどの遺構(竪穴住居かな?)から出たのか。そしてこの遺物を出した遺構はどんなものなのか(竪穴住居なら方位や形・時代など)。さらにこの銅製の帯締め具や銀製鈴はいつのものと判断されているのかとその基準となった事実は。
b鉄滓が出土したことで「工房」と考えられたのだと思います。この鉄滓が出土した遺構はどんなものなのでしょうか(aの質問と同じ内容)。そしてこの鉄滓自体の科学的鑑定はなされているのでしょうか。なされていればその結果も。
c 墨書土器と刀子が出土。刀子は木簡などに文字を書くときに消しゴムとして使いますから、書記役がいた証拠。刀子が出土した遺構とその性格を教えてください。同じく墨書土器が出土した遺構とその性格。
 以上細かいですが、建物群の方位だけではなく、こうした遺物やそれが出土した遺構の年代などをどう判断しているかが、この遺構全体の性格を判断する際に重要な要素です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  以上細かいですが、建物群の方位だけではなく、
こうした遺物やそれが出土した遺構の年代などをどう判断しているかが、
この遺構全体の性格を判断する際に重要な要素です。

はい,わかりました。本日(午前九時半に開館です)確認してきます。
例の細かい字のところだと思います。

〉 刀子は木簡などに文字を書くときに消しゴムとして使います

なるほど,なぜ刀子があるのか,今まで分かりませんでしたが,
紙ではなく木簡に書く時に,前の字を消す(削る)わけですね。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 国分寺四中の地下には何があるのか? | トップページ | 所沢市上安松の発掘現場 8/23 »

2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ