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2018年8月21日 (火)

下毛野朝臣古麻呂について

『古代東国仏教の中心寺院・下野薬師寺』に出て来る下毛野朝臣古麻呂が気になって,
ウィキペディアを読んでみた。
そうしたら,歴史のひとコマが見えたような(あくまで,「ような」です)気がしたのでリンクしておく。
これで川瀬さんが気になさっていた「正方位の掘立柱建物」の謎も解けると思うのですが・・・。

ウィキペディア「下毛野朝臣古麻呂」

https://ja.wikipedia.org/wiki/下毛野古麻呂

私は白村江の戦いの際,前将軍として上毛野君稚子が出兵するので,
関東王朝は九州王朝と運命を共にしたと思っていたのですが,
分家の上毛野君は戦いに参加したが,本家の下毛野君は参加しなかったということなのかな。
またあるいは,関東王朝を全滅させないために,「半分参加」という形にしたのか。
いずれにしても,一族が「生き残るか,滅亡するか」という瀬戸際に立たされたのだと思う。
とにかく下毛野君家は白村江の戦い以降も勢力を保ち,
その当主である下毛野君古麻呂は,大和王朝の下で大出世していく。

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持統天皇3年(689年)以前:直廣肆(従五位下に相当) ← この位以上が貴族とされている
文武天皇4年(700年)以前:直廣参(正五位下に相当)
大宝元年(701年) 日付不詳:従四位下。4月7日:見右大弁
大宝2年(702年) 5月21日:参議
大宝3年(703年) 2月15日:功田10町、封戸50戸。3月7日:功田20町
慶雲2年(705年) 4月20日:従四位上[9]。4月22日:兼兵部卿
慶雲4年(707年) 10月3日:造山陵司(文武天皇崩御)
和銅元年(708年) 3月13日:式部卿。7月1日:大将軍[10]。7月15日:正四位下
和銅2年(709年) 12月20日:卒去(式部卿大将軍正四位下)

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前に綿貫観音山古墳(6世紀後半の群馬県の古墳。豪華な副葬品で未盗掘で発掘された)が出てきたが,
その100年後の孫の代では白村江の戦いでは戦死(稚子)するのに対して,対照的である。


綿貫観音山古墳

https://ja.wikipedia.org/wiki/綿貫観音山古墳

それが,下野薬師寺の地下の様子に見事に表されているのではないか。

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① 「九州王朝に従う意味の東偏5度の屋敷」 → 663年白村江の戦い → 主権の移動決定
➁ 「大和王朝に従う意味を表して屋敷を正方位に改める」 → 褒美として従五位下への登用?
➂ 「大和王権の下での正方位の薬師寺の建立」(次の代以降だろう)

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という「建物の方位が歴史段階を表す説」,いかがでしょうか?

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

>分家の上毛野君は戦いに参加したが,本家の下毛野君は参加しなかった

下毛野君を本家、上毛野君を分家とした出典を教えてください。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

昨日の川瀬さんのコメントで,
「ちなみに毛野君の歴史を追ってみると、
そのそもそもの勢力の発祥の地が下野であったようで、
次第に上野さらに武蔵と勢力を広げたもののようです。」
というのが頭に残っていて,「本家」「分家」という書き方となりました。

肥沼さんへ
 これはちゃんと事実確認をしないで行った妄想の類です。
1:下毛野君を毛野君の本家とした根拠がない。(人の話をうのみにしただけ)
2:上毛野君は白村江の戦いに参戦したことは事実だが、ここではそこで滅亡したように書かれている。確認してないでしょ!「下野薬師寺」のウィキペディア記事を読んでいたら、下毛野君が朝臣の姓を賜ったときに上毛野君も同じく朝臣の姓を賜ったとあります。
3:下野薬師寺は下毛野古麻呂創建説を鵜呑みにしている。これはそういわれているだけ。根拠となる資料はなく、天武創建と伝承され、「発掘で出土した瓦が大和川原寺系の八葉複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦とであることから、7世紀末の天武朝の創建であると推定されている」から天武期創建と判断され、この時期の人である下毛野古麻呂が創建したと推定されているに過ぎない。実際は下層遺跡が出てきており、これを豪族の館との先行説を鵜呑みにされたようだが、これも一つの解釈にすぎず、伽藍中心部が発掘されていないが、寺としての創建が天武期を遡る可能性すらある。
 第一、1塔3金堂という特異な様式をどう考えておられるのか。1塔3金堂様式は少し配置がことなるが大和の飛鳥寺だ。これは6世紀末に遡る。
 下野薬師寺が天武期創建という定説は、伝承+出土瓦だけで定まったもので、下層遺構の問題やこの特異な伽藍配置の問題を無視したもの。これの再検討が不可避だと思う。
4:東偏建物=九州王朝、正方位建物=近畿天皇家との断定。これ自体が根拠不明。思い込みにすぎない。武蔵国分寺を推理していったとき、正方位の塔と尼寺と東山道武蔵路を九州王朝のものとしました。これとも矛盾している。東偏建物が全国に分布していることを確認した段階にすぎず、この背景はまだ明らかにされていない。肥沼さんは最初から東偏建物=九州王朝説に根拠もなく立っている。関東王朝のことを考慮すべきと山田さんは言っておられる。そして磁石で作ったのなら東偏はこの時代にはありえないのだから、どうして伽藍がや町が東偏になるのか。この問題をもっと深く考えてから結論を出すべきである。
5:下野薬師寺創建を古麻呂の次の代としているが、これでは発掘結果の瓦の資料とは完全に矛盾している。 確認されている1塔3金堂様式の寺院は確実に天武期以前創建だ。

 以上事実確認を怠った妄想であることの証明です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 以上事実確認を怠った妄想であることの証明です。

お陰様で,どんな点を考えていけばいいか少しわかりました。
読者の皆さんもそのようではないかと思います。
(もしかして,私より理解していらっしゃるかも)

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