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2018年8月30日 (木)

建康(南朝の都)は,東偏の都だった!

この絵を見て,「もしかしたら」と思ったのですが,
調べられなくて宙刷り状態です。
建物は破壊できても,街並みは残るのではないかと考えました。
宮殿の西側の点線で表されている場所です。

Photo

もう1つ.これは山形大学かなんかの論文集の中の挿絵なのですが,
中国の方が書かれて日本の方が翻訳されたものを見つけました。

六朝建康城の研究 ―― 発掘と復原 (1)
張 学鋒(小尾 孝夫 訳)

https://ci.nii.ac.jp/naid/110009459521

ここには何枚もの東偏(中に東偏25度のものも)復元図が出てきます。
南京市も六朝時代の古都の発掘はやっていたのです。
建康は東偏の街並みだった。
南朝の冊封の中にいた九州王朝も,
東偏の建物や街並みにかなり親しんでいたと考えます。
(つまり,中国というお手本があったということですね)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 ちゃんと論文全体を読んだのかな?
 たしかに方位をちゃんと記録した地図ではみな東偏です。しかし掲載された地図がかならず上が北とはかぎらない。
 そして方位を書いた図を測定しましたが、最後に著者が出した地図は東偏25度です。
 最初の朱さんの復元図(図1)は東偏5度。しかし著者はこれはまったく根拠なしと評価しています。図2は歪み過ぎて軸を測定できないし、これもまったく根拠なしと判断sれている。図3の秋山復元図は上を北と見ても東偏15度。しかし著者はこれも資料性格を把握してないと否定。図4の中村復元図は形が歪。一応中華路を中心として北を上として測定しても東偏15ど。図5の郭復元図も上を北とみて東偏25ど。そして著者は街路を正方形にしたことは間違いとしている。図6の馬復元図は東偏20度。これの表かも低い。図7東偏20度、図8東偏25度。図9東偏25度。

 たしかに全体としては東偏20度付近。
 ただ著者の復元図も含めて本当に根拠があるのかどうか。論文を精査してからですね。
 山田さんがおっしゃるように結論を急がない方が良い。
1:東偏建物街路群が九州王朝建造との確証はまだない。
2:この紀元後6・7世紀の日本は磁北が西偏の状態だから、東偏で作った合理的理由は不明。
3:もし南朝の建康が東偏で作られていたとしてもその理由も考える必要があります。

 ということでまだ結論を出せる段階じゃない。

追伸
 標記の「六朝建康城の研究 ―― 発掘と復原 (1) 張 学鋒(小尾 孝夫 訳)」を自分なりに精査しました。
 2000年代に入って計画的に行われた発掘によって、南朝の都建康のさまざまな時代の都の中心となる街路が発見され、その南北街路が東に25度傾いたものであり、さらにこの街路に直交する壁が見つかりその中にある家の外壁もまたこの南北道路の傾きと同じであった。
 こうした一連の考古学的調査に依拠して張論文は書かれていました。
 南朝の都建康が東偏25度の傾きの南北に長い形の都城であったことは確定のようです。その位置や大きさにはまだ検討の余地が残るとしても。
 ただし張氏はその理由を、この都が置かれた地形に理由を求めています。つまり都の東西南北に山や川や湖を計画的に配置するのが中国の伝統的都城だが、この江南の地でそれを定めると、地形的にどうしても都城の軸線が東に45度ほど傾いてしまう。こうした地形的理由から、建康城は東偏の都城となったのだと。そして都城の位置決定に大きな影響を与えたのが東西に南北に流れる大河の存在だと。

 南朝の都は東偏の都城であった。これは確定です。
 しかしこれは思想的なものではないと張氏は判断しています。たまたま都城を置いた地の地形的な理由だと。つまり正方位の南北に都を置ける地であれば正方位にした可能性があるわけだ。
 だが南朝を模倣した倭国にとっては、「都は東偏した南北に長い街」という固定概念ができた可能性はありますね。
 となるとなぜ倭国では東偏5度なのかが問題になります。

 東偏の都城や寺院が南朝に倣ったものだとすると、日本の各地にある東偏の寺院や都城が、南朝を仰いできた倭国=九州王朝時代のものだという可能性が高まります。
 考古学的に倭国=九州王朝の時代、つまり七世紀末までという時期確定がまだですがね。
 そして気になるのが近畿天皇家。僕の知る限りここの古代寺院は東偏ではなく西偏だ。西偏10度から20度。古墳も。宮殿はどうでしょうね?

 東偏の寺院や街路が九州王朝のものだという確定されてない仮説に基づいてはいましたが、倭国=九州王朝が長く南朝を戴いてきたのだから、南朝の都に倣って作ったのではないかという肥沼さんの着眼点は、よかったのだと思います。
 肥沼さんの「おもいつき」。恐るべし! 直観力の冴えですかね。

 しかし張論文にも明らかなように、日本の古代の都城が南朝の都城に倣ったものだとの仮説は、すでに何人かの学者が立てていて、南朝都城の研究に着手していました。
 初めての快挙ではないにしても、またまたホームランです。

 となると新たな疑問が湧いてきます。
 隋唐の都城は東偏ではなく正方位です(たしか)。これは都を置いた地が広大な平地だったので天子南面の思想に乗っ取って正方位で都城を建設できたからでしょうか。
 となると隋や唐と対等と考えた九州王朝も都城を正方位の南北で作ろうとしたということなのかな?この場合は地形的なことは無視して。

追伸2
 張氏は、現在の南京にある東偏の南北街路は、南朝時代の都の東偏の街路のなごりに違いないと判断していますね。
 肥沼さんの想定通りに、建物は完全に破壊しつくしても、街路までは完全に破壊できずそのまま土に埋もれており、その上に同じ地形上の地に都を作ろうとすると、必然的に東偏の街路になってしまったということなのでしょう。南朝時代の街路と今の南京の街路は一致していませんので。
 でも東偏25度の專敷の街路がそのまま出てきたということは驚きです。

川瀬さんへ
何回にもわたる長文のコメントありがとうございます。
感謝感謝です。

私も地形が左右したとは考えていますが,
そうだったにせよ「東偏させるには,東偏させるで,何か手本があるはずだ」。
そうでないと,斉明紀の「狂心の渠」でしたっけ,
頭のおかしい連中のやったことで,「俺たちのことではありません」というように,
九州王朝がわけのわからんことをやった,いや九州王朝があったのかもわからん.
というように推移しいくことを恐れたわけです。
それなら,南朝の都だった南京(当時の建康)を調べたらいいのではないか,
ということで検索しましたが,なかなかうまくいかない。
しかし,そこで私はブログにも載せた地図の中で「怪しげな東偏区域」があることを
見つけ出したわけでした。(府中の街を,東偏・正方位・西偏で分類したおかげですね)
建物はもうないが,街並みは残る。きっとこれは考古学を使って調べたに違いない。
ということは,何か論文を書いている人もいるはずとなり,張さんの論文に出会え,
今回の記事となりました。
東偏25度 → 東偏5度の大きな違いはありますが,
突然頭がおかしくなって作られた「狂心の渠」みたいな扱いはされずには済みそうです。
南朝に使いを送っていた九州王朝だから,建康の街並みをマネした。分かりやすい。
これがもし,倭の五王が大和王朝だったら大変です。
讃・珍・斉・興・武の歴代天皇たちは,口では「中国に従います。位を認めて下さい」
と言いながら,大和には西偏の建物を一生懸命作っていたということになりますから。
確か古墳時代あたりは,日本列島は西偏でしたよね。

磁気偏角の推移については、岡山理科大学のサイトを使って確かめてください。

http://mag.center.ous.ac.jp/
●日本考古地磁気データベース

ここに武蔵国分寺の位置データ
東経 139.2859 度, 北緯 35.4051 度
を入れて、西暦年数を入れればその年の磁気偏角。

同じく位置データを入れて永年変化を図示することもできます。

 4世紀以後のデータがあります。
 このうち4世紀から12世紀前半ぐらいは日本列島全体で西偏です。
 12世紀後半から19世紀前半ぐらいまでが逆に東偏。
 そのあとはまた西偏となって、現在は西偏7度ぐらいです。

私の国分寺関係論文には、武蔵国分寺・安芸国分寺などの場所の磁気偏角永年変化表を掲載しておきましたので。

 以前近畿天皇家の建造物の方位データを調べたことがありますね。肥沼さんが。
これによると,難波京・藤原京・平城京・長岡京・平安京とも
ほぼ南北軸と言っていいようです。

寺院については,個別に調べてみました。

・斑鳩寺(若草伽藍)・・・西偏20度(「法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告」2007掲載の「1939年調査区図」ではおよそ西偏20度、1968・69年の調査では23度から26度)
・法隆寺東院(夢殿)・・・西偏20度?⇒7度
・法隆寺西院・・・西偏3~4度⇒7度

・薬師寺・・・ほぼ南北軸
・東大寺・・・ほぼ南北軸
・唐招提寺・・・ほぼ南北軸

・飛鳥寺・・・ほぼ南北軸
・川原寺・・・ほぼ南北軸

これを私が年代順にならべてみました。
 唯一西に20度も傾いてたのが法隆寺の若草伽藍と東院。これ7世紀初めのもの。
 次に西に3・4度傾いてたのが法隆寺の西院。これ7世紀前半のもの。
 あとは全部ほぼ真北ですが古い順に行くと
 飛鳥寺 7世紀中ごろ
 川原寺 7世紀中ごろ
 藤原京 本薬師寺 7世紀後半
 平城京 東大寺 薬師寺 8世紀初め
 平安京 8世紀末

 この作業の中で、「難波京だけがわずかに東に傾いていること。九州王朝の首都太宰府もまたわずかに東に傾いていること。」が出ていました。
 九州王朝直轄地と近畿天皇家直轄地の古代寺院や宮殿遺構を調べてその方位と年代を正確に調べていくと、寺院や宮殿・都城の方位から建設主体を判断することができるようになるかもしれませんね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 4世紀以後のデータがあります。
 このうち4世紀から12世紀前半ぐらいは日本列島全体で西偏です。
 12世紀後半から19世紀前半ぐらいまでが逆に東偏。
 そのあとはまた西偏となって、現在は西偏7度ぐらいです。

約800年間西偏していたのが,次の約700年間は東偏し,
また再び西偏になって・・・とややこしいですが,
それを頭に置いておけば,そんなに難しいことではないかもしれませんね。

〉  この作業の中で、「難波京だけがわずかに東に傾いていること。九州王朝の首都太宰府もまたわずかに東に傾いていること。」が出ていました。
 九州王朝直轄地と近畿天皇家直轄地の古代寺院や宮殿遺構を調べてその方位と年代を正確に調べていくと、寺院や宮殿・都城の方位から建設主体を判断することができるようになるかもしれませんね。

興味深い結果ですね。いずれにしても,これからの研究に取り入れて,
逆に科学的な証明に使える「武器」にしたいところです。
そういう意味では,データが西偏になったり,東偏になったり,
ばらばらな方がありがたいのかもしれません。

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