「西海使」で検索したら
「西海使」で検索したら,以下の人物に出会った。
吉士長丹という人物どんな人か知らないが,
「遣唐使」と書いてあるのは,実は「西海使」ということなのだろう。
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朝日日本歴史人物事典の解説
吉士長丹
生年:生没年不詳
白雉4(653)年に派遣された遣唐使の大使。このときの位は小山上で,副使は吉士駒,
同行の留学僧には,道昭,定恵(中臣鎌足の子)らがいた。
翌年7月,百済,新羅の送使と共に帰国したが,このときは西海使と『日本書紀』に記されている。
同月,唐の皇帝(高宗)に会見して多くの書物と宝物とを得たことを賞して,
小花下の位を授けられるとともに封戸200戸と呉氏の姓をも与えられた。
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ウィキペディア「遣唐使」
https://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
つまり,
【九州王朝が送った使い】・・・遣唐使
【大和大王が送った使い】・・・西海使
私たちはゴチャゴチャにしているが,本当は送る主体が違う別の使いだったということなのだろう。。
だから,中国側の記録には残るのは,「第2次の遣唐使」としてのみ。
ところが「日本書紀」には,「実は,あれは我々が出した使いだったんですよ」と書いてある。
新しい国が登場した時,周りの国は「これからどうなっていくのだろう」と色めき立つ。
大和王権もそのため「西海使」を派遣した。しかし,中国側の記録には「第2遣唐使」と書かれた。
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肥沼さんへ
このまとめで良いと思います。
ウィキペディアにきちんと書かれていますが、白雉4年(653年)に遣唐使が二つ出されていることを歴史学者は不審に思わなかった。
のちの遣唐使が大使と副使を第一船・第二船に分けて送ったことと同じだと解釈してしまったのですね。というか「日本書紀」がそういう書き方をした。でもどちらの船にも大使と副使が乗っているのですから、一度に二つの使節を送る。どう考えても不審なのですね。
だから第一船が帰国したとき「西海使」とされたことが事実であり、この近畿天皇家の唐への使節は新羅・百済経由、つまり朝鮮半島沿岸経由で行ったのであり、難破して戻ってきた九州王朝の遣唐使は、新羅と対立していたから朝鮮近海を経由できなかたので五島列島・経由で東シナ海の荒海を横断する南路をとったということでしょう。
この時期二つの王朝が異なる使節を唐に送っていたことは、斉明5年(659年)に近畿天皇家が唐に送った「西海使」が唐朝廷でもう一つの使節と席次を争って処罰されるという事件が起きたと、使節の一員であった伊吉博徳の報告書で書紀には記されています。(※以上は「書紀斉明紀を精査する」にも論じておきました)
近畿天皇家一元史観では、日本書紀すら正確に読めないということです。
投稿: 川瀬 | 2018年8月22日 (水) 12:35
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
「二種類のコースがある」というのと「席次を争った」というのは,
多元的に考えれば当然ありうるケースだったわけですね。
それが一元史観だとわけがわからなくなる。
なるほど!
投稿: 肥さん | 2018年8月22日 (水) 22:55