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2018年8月12日 (日)

もう「多磨郡衙」は発掘されているのではないか?(2)

昨日,アップした「もう「多磨郡衙」は発掘されているのではないか?」には,
実は少々心配なことがあった。
というのは,私が「多磨郡衙」と考えている掘建柱建物と近くの柵の図には,
明らかに角度の違いを感じていたからだ。(『よみがえる古代武蔵国府』P17)
両方が同じ角度ではない・・・ということは,いったい何度と何度なのだろう。
多磨寺と同じ5度東偏のものはあるのか・・・。

補助線を引くためにA3判でコピーを取って,補助線を引き,分度器を充ててみた。
すると・・・

Dscn3020

掘立柱建物の方は,3度東偏。柵の方が,5度東偏という結果が出た。
ということは,なぜ掘立柱建物Aが5度東偏でないかという謎は残るが,
とりあえず柵(の中に建てられた掘建柱建物?)は東偏5度で,多磨寺と同じ方位ということではないだろうか。
そして同時に,私はAから北東50mのところにある掘立柱建物Bを見出した。
これだと明らかに5度くらいありそうだ。(少なくとも3度よりは大きい感じ)
そして,多磨寺からBの方へ補助線を引くと,ちょうど「京司(きょうず)通り」がかつての姿
=直線で通っていたと思われる姿の行き先にBが存在することがわかったのだった。
もしかしたら例の柵は,掘立柱建物Bの周囲を囲んでいた柵なのかもしれない。

Dscn3023_2

さて,最低1つは多磨寺と同じ方位の建物(=多磨郡衙)がありそうなことを確認した私は,
東部地域(区画A)にどのくらい東偏の建物や溝があるのか知りたくなった。
都市づくりの証拠としては,数個では説得力が弱いだろうから。

小さい本の地図では細かすぎて確認できないため,A4判の地図を141%の倍率で拡大してA3判にし,
さらにそれを半分に折って,それぞれを141%に拡大するとA2判のものができあがる。
(よく体育祭や合唱コンのクラス集合写真を教室に飾った大判サイズである)

Dscn3022_2

すると,荒く見ただけでも,この近くには30超の「東偏建築物」がすでに発掘されていたのだった。
東偏5度だけではないと思ったので,ちょっと遠慮した。Aのように,東偏3度もあったと思ったからである。
区画Aは,その特徴からあだ名を付けたら,「東偏地域」だったということになる。
なおこの京司地区の東半分からは,郡名を記した瓦や は出て来ないそうだ。
これはきっと古い時代の都市の証拠ではないだろうか。郡名を記した瓦や は西半分の特徴らしいから。

そしてもし,多磨寺を国府寺と言うなら「東偏5度の国庁跡」が近くに出土しなければならず,
逆に郡寺というなら「東偏5度の郡衙」が出ていなければならない。
そして,多元的「武蔵国分」研究の考え方を採用すれば,
もう「宮町2丁目には,東偏5度の郡衙が出土していますけど?」という結論になるわけである。

これで,肥さんの思いつき(「灯台下暗し」説)2回目を終わります。


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
 「多摩郡衙はすでに発掘されているのではないか」。なかなか良い展開ですね。
 今の「国衙遺跡」の中に大型の東西棟の掘立柱建物を見つけましたね。しかも東に5度ほど傾いた。これが先行する古い多摩郡衙(評衙)の中心建物である可能性が高いですね。
 そしてこの少し北側にある同じ向きをした小規模な掘立柱建物。3の建物の上部の○で囲んだ建物。この建物は明らかにのちにできた「国衙遺跡」の中心の東西棟の掘立柱建物⇒礎石建物、「国衙」正殿とされたたてもので切られていますから、「国衙遺跡」に先行する前の時代のものであることがあきらかです。
 そして肥沼さんが遺跡地図全体を精査されて見つけましたが、府中市街の「国衙遺跡」の東側にはたくさんの東偏5度ほどの掘立柱建物が見つかっており、そして「よみがえる古代武蔵国府」のp36の地図で明らかなように、これら東偏5度の建物群に直角に交わる道(京所道と平行な、東西だが南に5度ほど偏した道)が多摩寺と「国衙遺跡」の北200mほどの所で発掘されています。
 この東偏5度ほどの建物群に直角に交わる二つの道。明らかに「国衙遺跡」、真北に向いた南北道と統一的都市計画でできた都市に先行する時代の都市の痕跡です。
 さらに付け加えるとこれらの東西道で南に5度ほど偏した道路に直交する東に5度ほど偏した南北道が見つかっていませんが、多摩寺のすぐ東側の南北道は現在でもほぼその方位に走っていて、これが「天神道」と呼ばれた、多摩寺のすぐみなみにある 天神社の参道です。
 この天神道こそ、「国衙遺跡」に先行する多摩郡(評)の中心都市の南北を走る中心街路だったのではないでしょうか。古代道が見つからないのは今の天神道のほぼ下に古代道があるからではないでしょうか。
 この仮説。さらに遺跡を精査して深めてほしいと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 この仮説。さらに遺跡を精査して深めてほしいと思います。

せっかくつかんだこのチャンス。
川瀬さんにフォローしていただきながら,
行けるところまで行きたいと思います。
よろしくお願いいたします。

本日も大変興味深い事実を見つけて参りました。
明日の「夢ブログ」で報告しますね。

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