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2018年8月 3日 (金)

「拝島道」との交差はどうでしようか?

「東八道路の地下には古代道はない」ということで残念なのですが,
昨日その周辺をフィールドワークしてきていて,
「拝島道」と呼ばれる古道を確認してきた。

今は「武蔵台通」とか,国立市に入ると「学園通」とか名は変わっているが,
道路脇に石碑が立ち,拝島まで道が続いていた(いる)ことを知らせている。
これが東八道路から数十mから百数十m北の所にあって,
昨日あげた交差点(府中栄町3丁目)付近では,
府中市と国分寺市の市境も演じている場所なのでありました。
なので,「交差点」はまだ諦めなくていいのではないだろうか。


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 拝島道が江戸時代に遡る街道であることはわかりました。またその南を走っている横海道(横街道)もまた府中街道と呼ばれた江戸時代に遡る道であることはわかりました。
 そして拝島道が、東八道路のすぐ北側にあり、府中市栄町三丁目付近ではその北20mほどを並行して走っていて、府中市と国分寺市の境界をなしていることもわかりました。
 そして江戸時代の街道はその起源は中世もしくは古代にさかのぼる可能性があることは常識です。

 問題は、今問題になっている府中市栄町三丁目の東八道路と古代の東山道武蔵路との交点の場所付近に、東西に走っている道路遺構があるかということです。これが無ければ拝島道が古代にさかのぼる可能性には根拠がないわけです。
 肥沼さんが提示された「九州王朝の武蔵国府が見えてきた」の中の発掘調査地区図をよく見てください。
 東八道路を作った際の遺跡発掘区はA・Bで示された東西に延びた区域ですが、そのすぐ北側もしくは南側に東西に走る道路遺構が出ているでしょうか。
 この図では道路遺構は、二本の線に挟まれた薄く塗られた場所です。南北に延びる東山道武蔵路や、国分寺参道口の道もみなこの表示です。
 一目瞭然です、南側は200mほどの範囲で発掘調査区が図示され主な遺構が図示されていますが、東西に走る道路遺構はありません。そして北側も北100mほどの範囲が図示されているのですが、ここでも東西に走る道路遺構はありません。
 拝島道が現代の東八道路の北側を古代に走っていたとすると、東八道路とほぼ平行にその北側200mの所には武蔵国分寺の寺院地区画溝が走っているのですからその間になければなりません。この範囲にはまったく道路遺構が見られないのですから、推定国庁遺跡のすぐ北側に古代の道路があったという肥沼さんの仮説は成り立ちません。
 そして南側200m以内に東西に走る古代道路遺構がないということは、私が先に提示した仮説、府中刑務所の北を通る学園通り、江戸時代には横街道(海道)と呼ばれた府中道も古代には遡れないということがわかります。
 したがって遺跡状況からは、想定国庁の近辺に古代道路の交差点があったという仮説は根拠がまったくないのです。
 あと可能性があるとしたらさらにその南。府中刑務所の中やその東の晴見町4丁目や南の晴見町1・2丁目を通る、東山道武蔵路と交差する東西路、あるとすれば武蔵国の東の郡と連絡する古代道路がある可能性ですが、ここはまったく発掘されていないので不明としか言いようがありません。

 武蔵国庁が私が想定した場所にあったとしたら、ここが選ばれた理由を考えてみましょう。
1:大国魂神社東官衙遺跡のすぐ東隣には、多摩郡寺である多摩寺がある。したがってこの西隣の官衙遺跡は当初多摩郡の郡庁として作られたことは確実。おそらくこの多摩寺を中心とする多摩川の河岸段丘の縁が多摩郡の昔からの中心地であったことは、多くの群集墳の存在から確実です。
2:この郡庁の北側には広大な河岸段丘が、国分寺崖線との間に広がっていた。
3:そこで王朝は新しい武蔵国の国府を多摩郡庁の北側の河岸段丘上に作ることとし、その候補地に北の上野国府の南を通る東山道からの分かれ道として東山道武蔵路を建設した。
4:推定国庁の西側の丘にある正倉群は、その北の国分寺崖線の上にある武蔵台二丁目の正倉群とともに武蔵国府の武蔵国の税を納めた倉だったと思います。国府の周囲に岡が広がっていることは正税を納める正倉群を作るには格好の場所であり、国分寺崖線のすぐ下の段丘は各地の泉が湧いていて国府を作るにふさわしい場所と考えたと思う(すぐ南が多摩郡の中心だし)。
5:そこで新しい多摩郡庁は多摩寺のすぐ西側に建設され、この北側には東山道武蔵路からの連絡路が作られ、この道は同時に武蔵国の東の郡との連絡路として、そして多摩郡西部との連絡路として機能した。
6:そして国府は東山道武蔵路の東側に作られたので、その東南の外れと直接連絡できるように、多摩郡庁の北側にその東西道路の分岐としてまっすく北に延びる南北道が作られ、直接郡庁と国庁とが連絡できるようにした。

 こう考えると、推定国庁のすぐそばに古代道路の十字路が無くてもおかしくはありません。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 こう考えると、推定国庁のすぐそばに古代道路の十字路が無くてもおかしくはありません。

そういうことでしたか・・・。なかなか難しいですね。
やはり「発掘調査記録」の中から証拠を見つけるしかないですね。

あと,「なぜ武蔵国分寺や国分尼寺へは道が通じているのに,国府(国庁)へは通じていないのでしょうか?変ですよね。国衙と郡衙が道が通じていなかったら」という問い(思いつき)を出してしかるべきだったのかな,ということです。
それは私の得意(?)とするところなのですから・・・。
でも,国衙の一部が出てきている可能性大なので,暑い夏を「熱い夏」にしましょう。

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