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2018年8月26日 (日)

国分寺四中の地下には何があるのか?(3)

前回の報告で,あまりにもたくさんの掘立柱建物があり(40棟超),
しかも,ざっと見ても5つの建物に庇(ひさし)がある地区であることを紹介した。
これまで方位にこだわって寺院や街並みを見てきたが,
ふりだしに戻って正方位のもの」がまたここで登場した。
それがもし官衙群だとしたら,私たちが追い求めてきた「武蔵国府」かもしれない。
すなわち,西から東へ尼寺・東山道武蔵路・官衙群・僧寺の塔が
一挙に正方位の街並みの中に出現する
のである。
では,官衙群からどんなものが出土しているか,
『武蔵国分寺跡発掘調査報告が概報Ⅴ』を調べてみることにしよう。
この報告は,1973(昭和43)年に行われた発掘の報告書で,
2回目=第8次が翌年に,3回目=第17次が3年後に,4回目=第38次に行われ,
次に9年開いて5回目=第267次が,さらにまた長く開いて6回目=第590次が2005年であった。

さて,第1回目の国分寺四中遺跡の発掘の成果は?
これが実はすごいのだ。まあこの第1回目の報告だけで
『概報Ⅴ』が埋め尽くされていること自体でそれはわかるが,
以下に述べるような主な出土があった。

Dscn3229

【掘立柱建物・SB】

SB55~須恵器の底面に「角」墨書。女瓦の凹面に判読不明朱墨書と「大」の模骨文字。
紡錘車に「□代」。刀子

【SE1】 家のすぐ目の前に置かれている

【竪穴住居・SI】

SIの1~宇瓦の女瓦部凹面に「大」の模骨文字。

SIの4~女瓦凹面に判読不明朱墨書。カマド凹面判読不明朱墨書。

SIの18~男瓦に判読不明の朱墨書2か所。
女瓦に多数の模骨文字「中」「上」「十」「廣」「七」「本」「七」「判読不能」
多数の朱墨書「寺」「寺」「判読不明」「寺」「寺」「寺」「判読不能」「卅」
砥石2個,刀子4本,鎌,のみ2本,釘複数,刀子の未完成品,片面に金メッキのバックル(横長),鉄滓多し

SIの9~須恵器の底に「隆」墨書。他の須恵器にも「隆」。女瓦凹面に判読不能の模骨文字

SIの10~男瓦の凹面に判読不明の朱墨書。釘。刀子

SIの11~杯の口縁部に墨書判読不明。男瓦に凹面朱墨書。砥石2個。鉄製品

SIの12~釘多数。女瓦に判読不明朱墨書き

SIの14~須恵器の外面に「具」の文字。カマドの凹面に「寺」の朱墨書。ハク(土で正方形の焼き物)。鉄滓

SIのI5~カマドの凹面に意味不明の朱墨書。「大」の模骨文字と判読不明の朱墨書。刀子。鉄鏃。釘

SIの16~男瓦の凹面に「寺」の朱墨書。同じく判読不明の朱墨書。判読不明の朱墨書。また「上」の模骨文字
バックル絞め具(正方形)。銅製帯具(正方形)。刀子。釘

SIの19~須恵器の外側に判読不明の墨書。カマドの口縁部に「山田」の墨書。釘。

SIの20~女瓦の凹面に「上」の逆字模骨文字。須恵器に判読不明墨書。刀子

【SK・土坑】

SK8~須恵器のに判読不明墨書。釘

【表土出土遺物】各種の漢字。硯。瓦塔2片。砥石4つ。たくさんの墨書と朱墨書など。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

合計,硯1,バックル2,砥石6,刀子10,多数の墨書と朱墨書。なのに仏教関係の遺物がない・・・。
これはやはり,寺院ではなく官衙施設にあるべき品々のような気がしますが,
大國魂神社に正解を決めてしまっていると,なかなか予想変更するのは難しいかも。

そして,これは第1回目の調査のみの遺物で,第2~6回目は入っていないのです。
報告書が見つかり次第,それも書き出してみたいと思いますが(どこにあるのか今のところ不明),
あなたはこの出土物から,何の施設が思い浮かびましたか?

741年の「国分寺建立の詔」を真に受けたり,土器編年を信用しすぎると
かなり時代を大きく間違ってしまうかもしれません。

※ 銀製品については,第1次ではないようです。

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コメント

肥沼さんへ

 第四中学校遺跡の調査報告書調べ。御疲れ様でした。
 多数の刀子や砥石が出土しているので「書記官」的な人もいたことがわかり、特に竪穴住居の14・18は、「工房」と呼んでもおかしくはないですね。しかも一次調査の竪穴住居と掘立柱建物群は基本的に正方位の建物群なので、「国分寺」の塔を中心とした創建伽藍と同じ時代と判断できますね。
 報告書ではいつの時期の遺跡と判断していたのでしょうか?

 あとこの遺物だけで「寺院関係ではなく官衙」とは断定できません。
 なぜならば、寺院の事務方の施設や工房もまた官衙なのですから、ここから仏教関係の遺物が出なくてもそれは当たり前です。
 竪穴住居から多数「寺」の朱書き墨書が出ていることは、寺院の事務方の官衙である可能性を示しています。場所からみて、「国分寺」僧寺と尼寺双方の建設の事務方と工房を兼ねた官衙遺跡と見た方が良いと思います。

 あと、「MK-8・17・38次調査の概要」の本文は、この「調査概報V」に掲載されているはずですが。
 そして「MK-8・17・38次調査の図面」と「第267次」の本文と図面・図版がまとめらているのは、「武蔵国分寺遺跡発掘調査概報XVIII ー市立第四中学校建設に伴う第2から5次調査(図面・図版編) 」です。1991年発行。
 さらに「第590次」の調査をまとめたのが、最初に見られた「武蔵国分寺遺跡発掘調査概報31 ー市立第四中学校建設に伴う第6次調査 」2005年刊です。
 元町図書館になければ、国分寺市立本多図書館(ここが中央図書館)に行けばあるのではないでしょうか。

追伸
 SB55は、東西が10mはあり、庇付の掘立柱建物なので、役所であると思います。
 そしてSB55とSB2は、先行する竪穴住居を壊して建てられているので、最初に「工房」群が設けられ、後から役所も併設されたと思われます。
 さらに掘立柱建物を見ると、SB1と2は、柱穴が拡張されたり他に移されたあとがないので、一度建設され、そして廃棄されたものと思われますが、SB55は柱穴が大きく拡張され、図面でも建物の大きさが実線と破線とで描かれているので、一度建て替えられていると思います。掘立柱が腐食する期間がわかりませんが、かなり長期間存在した可能性が。
 それでも建物の方位は基本的に正方位なので、この遺跡は、「国分寺」僧寺・尼寺建設に伴って設けられ、僧寺創建伽藍が塔だけ作って中止となったと同時に、役割が終りになったと考えることも可能です。

追伸2
 国分寺市立図書館蔵書検索でやってみても、「武蔵国分寺遺跡発掘調査概報18」だけはどうやっても出てきません。どの図書館にもないようです。
 もしかしたら紛失してしまったのでしょうか。
 一度元町図書館で尋ねてみて、それでも埒があかなければ、武蔵国分寺資料館の二階にある「ふるさと文化課」に行って見ないとだめかもしれません。

 あと土器編年による建物の年代について。
 どの報告書を見ても、竪穴住居の床面から出た土師器や須恵器の破片の形式からわかる年代をもって、その住居の年代にしています。
 でもこれおかしいです。
 廃棄された住居の床に土器の破片がある。ということは、この住居の廃棄された年代を示すだけで、この住居が作られた年代ではありえません。また通常竪穴住居の床面より上の埋設土の中に出てきた土器の破片が示すものは、この住居が廃棄された後に土が入って埋まった年代をしめすものです。この埋設土中の土器の一番新しい土器の年代が、最終的に埋め尽くされた年代です。
 この観点からすると、竪穴住居の床面から見つかった土器の中の一番新しい土器の示す年代が、この住居の廃棄された年代ということになります。これは決してこの住居が作られた年代を示すものではありません。
 発掘担当者たちは、以上の考古学的事実の示す意味を忘れているのではないでしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 あと、「MK-8・17・38次調査の概要」の本文は、この「調査概報V」に掲載されているはずですが。

そうなんですか。気が付きませんでした。

〉 そして「MK-8・17・38次調査の図面」と「第267次」の本文と図面・図版がまとめらているのは、「武蔵国分寺遺跡発掘調査概報XVIII ー市立第四中学校建設に伴う第2から5次調査(図面・図版編) 」です。1991年発行。
 さらに「第590次」の調査をまとめたのが、最初に見られた「武蔵国分寺遺跡発掘調査概報31 ー市立第四中学校建設に伴う第6次調査 」2005年刊です。
 元町図書館になければ、国分寺市立本多図書館(ここが中央図書館)に行けばあるのではないでしょうか。

ありがとうございます。
もう一度確認してみます。「Ⅴ」の一部と「28」ですね。
「31」はすでに確認済です。

〉  国分寺市立図書館蔵書検索でやってみても、「武蔵国分寺遺跡発掘調査概報18」だけはどうやっても出てきません。どの図書館にもないようです。
 もしかしたら紛失してしまったのでしょうか。
 一度元町図書館で尋ねてみて、それでも埒があかなければ、武蔵国分寺資料館の二階にある「ふるさと文化課」に行って見ないとだめかもしれません。

「18」も追いかけてみます。

肥沼さんへ

 ⅩⅧ=18です。28ではありません。
 いま探しているのは、「武蔵国分寺遺跡発掘調査概報18」。

この第一次調査区の遺跡。
遺物の内容と場所から二つにわかれるのではないでしょうか。

1:西側の西偏区画溝に囲まれた地域。
 ここの竪穴住居からだけ「寺」との墨書が出ている(18・14・16)。そして鉄滓、つまり製鉄に伴う金屑が出ているのもこの地域の竪穴住居(18・14)。また作りかけの鉄製品が出てくる(18)。
 つまりこの地域は寺の工房の可能性がある。
 そしてこの地域の竪穴住居の床面の形は東側に比べると歪だ。さらに二つの住居が西偏区画溝を壊しているので、時間的に後世のものだ。

2:東側の地域。
 ここには真北を軸にした東西棟の掘立柱が三棟ある。一棟は庇付なので役所。この地域の竪穴住居には工房と思われる遺物は出ていない。そして竪穴住居の多くは東に竈を据えた整った長方形。

 もしかしたら東側の地域が初期の武蔵国府関連の官衙で、西側の西偏区画溝に囲まれた地域が寺院の工房なのかもしれませんね。そしてこの西側の地域の西側が西偏の掘立柱建物群があるところです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ⅩⅧ=18です。28ではありません。
 いま探しているのは、「武蔵国分寺遺跡発掘調査概報18」。

了解しました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 この第一次調査区の遺跡。
遺物の内容と場所から二つにわかれるのではないでしょうか。
 
川瀬さんの分析でいいと思うのですが,本日いくつかのことが判明しました。
大きな訂正があります。SIの1~20で,他は数字の順なのに,
なぜか3番目が「18」になっています。これが「8」の間違いでした。Iと1が似ていたため?
しかも,ここからは「吹子羽口」が出ています。ということは「工房」ですよね。
刀子と墨書土器に気を取られていたので,大事なものを飛ばしてしまいました。
どうもすいません。

それに気が付いたのは,資料館でもらってきていた資料にSIの8で吹子が出ていて,
それで「工房」と認定したみたいな話が出ていて,
「あれ18じゃなかった」と分かったからです。図書館が休みだったのでわかった?
写真でそのページを撮ったので,さっそくアップしておきます。
調査報告の精査というのは,なかなか大変な作業ですね。

肥沼さんへ

 なるほど、SIの18ではなく、SIの8ですか。
 ということは、先のコメントでこの地区は二つの地域、すなわち東側の官衙遺跡と西側の工房遺跡という話はなくなりますね。
 東西どちらにも工房と考えることのできる竪穴住居(東:S18・西SI14)があるわけですから。

 調査報告の精査は大変な話です。一つ一つの遺物の意味も考えないといけませんから。
 できれば拡大コピーした遺跡地図の竪穴住居に出土物の記号でも載せて見られるようにすると、考察はだいぶ楽ですね。

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